2013年7月26日 (金)

【映画】「サウンド・シティ‐リアル・トゥ・リール」

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フーファイのデイヴ・グロールが作った映画「サウンド・シティ‐リアル・トゥ・リール」、ようやく観ました。
一言でいうと、これはデイヴが全力でアナログ万歳!ローファイ万歳!バンド万歳!って叫んでる映画だな(笑)。宅録野郎には響かないかもしれないけど、僕みたいなロックおやぢにはけっこう効きました。

オレ、これ観て、ああ自分は幸運な世代だったんだなあ~ってつくづく思いました。それは、僕らはレコードの溝に刻まれたアナログな音のマジックを経験することに何とか間に合ったからです。今はコンピュータ一台でどんな音でも出来てしまう時代。そんなデジタル化のあおりを受けて、アメリカでもアナログなスタジオは軒並みツブれてる状態らしいんです。
この映画の舞台、LAの「サウンド・シティ」も例外ではなく、ニール・ヤングの「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」やフリートウッド・マックの1stなど多くの名盤が製作された伝説の場所であるにも関わらず、2011年に止むなく閉鎖。それを知った熱血漢デイヴは、自分が出資してスタジオを買い取っちゃいました。そして、ここと縁のあるミュージシャンたちを集め、大セッション大会を敢行。その様子を収めたのがこの映画ってわけです。

ニール・ヤング、トム・ペティ、リック・スプリングフィールド、スティービー・ニックス、リンジー・バッキンガム、トレント・レズナー、リック・ニールセン…。豪華なミュージシャンが次々に出てきてセッションを繰り広げ、「サウンド・シティ」での思い出を語ります。これだけでロックファンにはたまりません。プロデューサーのリック・ルーヴィンなんかも登場。この人、レッチリとかプロデュースしてるから、バリバリにロックした人だと思ってたんだけど、実際は仙人みたいな風貌で物静かに話す人物だったので拍子抜け(苦笑)。

これ見てると、当たり前の話かもしれないけど、僕が欲してるのは「音楽データ」なんかじゃなくて、人の手を介した「音楽」なんだな~って気が付きました。極端なことを言ってしまえば、レコーディングの現場においては、ミュージシャン同士で音を交わしたり、プロデューサーと音楽上のコミュニケーションを繰り返すことだけではなく、そのスタジオに漂う空気感とか、受け付けのおねーちゃんと合間に交わす言葉とかだって音楽の大事な要素になってるんだよね。独りで部屋に籠って作るんではなく、スタジオで大勢の人が関わり合いながら時間をかけて音楽を作る…。そのことが、数値には表れないけど大切な「何か」をテープに残すんだと思う。その得体のしれない「何か」こそ、良い音楽のキモなんではないかと、今さらながらに思うのであります。

デイヴ・グロールの心意気にもリスペクト。この人にとって「サウンド・シティ」ってのは、ニルヴァーナ時代に「ネヴァー・マインド」を録音した大切な場所なんだよね。それにしたって、わざわざ買い取ったりはしないでしょう、普通。彼もアナログの機材の良さとスタジオでのマジックを信じ続けているミュージシャンなんでしょうね。世代を超えた大物たちがたくさん集まったのも、彼の真摯なミュージシャンシップに共鳴したからなんだろう。なにしろ、ポール・マッカートニーまで来ちゃったぐらいだから(今気が付いたんだけど、ポールってサウンド・シティと関係あるのかなあ?(苦笑))。
曲は骨組みをデイヴが作ってきて、それをスタジオセッションで膨らませていったみたい。このセッション風景も面白い。ナイン・インチ・ネイルズとかレイジ・アゲインスト・マシーンのメンバーなんかとは、世代が近いから手が合うのはわかるけど、リック・スプリングフィールドなんかとも意外なぐらいしっくりいっちゃうのだ。もともとリックってセンスのいいロックギターを弾く人だから、デイヴと手合せすることで彼のハードロッキンな部分がうまく引き出されたんだと思います。ポール・マッカートニーも、フーファイっぽい曲を自分の色を加えてうまく作りこんでいく過程が記録されてて、さすが。うーん、コレはサントラも買わんといかんな。

何か月か前に、山口洋や渡辺圭一もブログでベタ褒めしてましたが、とにかく、この映画は今の40代ぐらいの音楽ファンなら絶対ぐっとくるはず。もちろん、今の配信音源に馴れた若い子たちも是非!

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2013年7月 8日 (月)

音楽配信はどこへ向かう? アップル、ソニー、グーグルの先へ…ユーザーオリエンテッドな音楽配信ビジネスとは?/小野島 大(著)

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雑誌『ミュージックマガジン』の連載「配信おじさん」の書籍化。著者の小野島さんは「フィッシュマンズ全書」の著者で、FBフレンドになっていただいてる方です。

この本は、配信が中心となりつつある今の状況におろおろしてる僕みたいな音楽おぢさんが、現状を俯瞰するのには最適のテキストかもしれません(苦笑)。今さら言うまでもないことですが、CDの売り上げは年々減っています。90年代みたいに多彩な音楽のCDがメガセールスを記録するような時代は2度と来ないでしょう。じゃあ、減った分だけ配信に流れていってるかというとそうではないんだよね。音楽を聴く分母そのものがどんどん減っていってるんです。21世紀は音楽が生活の中で占める割合がどんどん低くなってる時代。
そんな中、ネット配信ってのは音楽復興のための命綱になれるはず。それはみんな何となくわかってるんだけど、なかなかそっちに踏み込めない。CDに馴染んできた旧来の音楽ファンは、配信というカタチのないモノを購入する行為がどうにも肌に馴染まないし、業界内でも既得権益を守ろうとする人達がいたり、日本独自の著作権の壁があったりでなかなか思い通りに事が進まない。そんなこんなでもたもたしてるうちに、ますます音楽離れは進んでいく…。この10年ぐらいは、そんな流れがずーっと続いてるんじゃないでしょうか?
だいたい、一口にダウンロードサイトって言ったって、itunesやらmoraやらdiscasやらいろいろあって、どれが良いんだかさっぱりわかんないよね。そうなると、オレみたいなおっさんは気が短いから“あ~っ!”ってなって、AmazonでCD買えばイイや!ってことになっちゃう(苦笑)。で、袋が赤黒の某ショップなんかに行くと、同世代ぐらいの音楽ファンがいっぱいいるから何となく安心しちゃって、ネット配信はとりあえず様子見でいいや…(苦笑)。そんなところで止まってる同世代はきっと多いと思う。

でも、最近僕はもうちょっと配信に関して現状を知っとかなきゃヤバイんじゃないかってことも思い始めてるんです。だって、好む好まざるに関わらず、今後音楽をユーザーに届けるデバイスが配信主体になっていくことは疑いようがないわけでしょ?音楽おぢさんとしては、その中から肯定的な材料を見つけ、自分自身も少しずつ変わっていくしかないと思うんですよ。これまでにコレクションした莫大な量のCDを聴くだけでも人生は楽しく暮らせるかもしれないけど、やっぱり好きなバンドの新譜も聴きたい。だったら、アーティストが心置きなくスタジオアルバムをリリースできる環境を維持していくために、配信も受け入れていかないと。下手すりゃ、音楽音源販売という文化形態自体が絶滅しちゃうかもしれない話ですからね…。
オレ、この本の中で物凄くショックな記述を見つけちゃった。最近のドナルド・フェイゲンの発言なんだけど「今、自分の収入の大半はライブ活動によるもの。スタジオ音源だけでは食っていけない」。あのスティーリー・ダンがですよ。あれほど緻密なスタジオ音源を作るドナルド・フェイゲンがですよ!今、日本でもライブは人が入るけどCDが売れないっていう状況になってますが、アメリカは日本以上に深刻なのかもしれません。

この本に書かれてるのは、音楽のネット配信に関して2008年から2013年の5年間に起きた出来事。僅か5年。でも、この短い間にも状況は激変してんだよね。まずはそれに驚いちゃう。渋谷のHMVがツブれたことや、ナップスターだ、着うただってのも既に懐かしい言葉になってるもんなあ(苦笑)。実際、この落ち着きのなさがデジモノに弱い僕に二の足を踏ませてたところがあります。ハイレゾ音源の配信とか言ったって、それを再生できる機材をそろえなきゃ話にならないし…。ただ、定額制で一曲当たりの単価を下げたサービス形態とかが普及してくれば、新しい音楽との出会いが増えそうで面白くなりそうな予感はします。
後はあれだな。僕自身の意識下にあるモノ信仰を払拭しなければならない。実はコレが一番問題(笑)。僕ら世代にはそういう人が多いと思うけど、音楽をものとして持っていたい気持ちにはなかなか抗えない。CDとかヴァイナルとか“モノ”としてちゃんとカタチがあり、それにはちゃんとジャケットと歌詞カードが付いて、曲のクレジットもきちんと記載されてる。そういうものを所有するのが“音楽を買う”ということだっていう気持ちから抜け出すこと。これができそうでなかなかできない…(苦笑)。

ただ、そういう気持ちも最近変わりつつある。僕は音楽以外に本もたくさん読むんだけど、最近、電子書籍も案外いいなあって感じてるんです。装丁とかを愛でる感覚はないけど、それもすぐに馴れたし、当たり前だけど読後感は変わりません。印刷代がかからないせいか、電子版の方が紙より価格が安いことも多いし、何よりも場所をとらないのがありがたい。考えてみたら良いことづくめのような気がするんですよね。
タネあかしをするとすると、この本も配信のみの出版なんです。音楽と本では違うけど、こういうカタチで電子配信に慣れていってほしいって言う小野島さんの作戦なのかな、これ?(笑)

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2013年6月26日 (水)

【映画】 さよなら渓谷

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この映画は主演の真木よう子に尽きるっ!真木よう子、惚れたっ!真木よう子、いいなあ~!もう一度。思いっ切り力をこめて“真木よう子、すごくイイっっっ!!!”(笑)
実はオレ、前から気になってたんです、この人。たまに彼女がテレビに出てくると、自分でも不自然なくらいそわそわしちゃって家族からも白い目で見られてたぐらい(苦笑)。でも、なんでこんなに惹かれるのか、自分でもその理由がわからずにいたんだよなあ…。
この映画観て、ようやく判りましたぜ。真木よう子の顔って、東京で育った美人さんの顔じゃないんだよね。地方都市のべっぴん顔。そしてあの目…。大勢の家族の中で小さいころから大人の男たちを見ながら育ったような達観した目…。オレ、こういう女性に弱いんだよなあ…(苦笑)。思い返せば、中坊の頃から好きになった女子って、こんな顔の娘ばっかだったような気がする…(苦笑)。真木よう子、決しておっぱいが大きいから惹かれていたわけじゃないんだからなっ。わかったかっ?!(誰に言ってんだ、オレ?(^_^;))

この映画で、真木よう子はかつて自分をレイプした男と共同生活を送る女というとても難しい役をやってます。この演技がもう鬼気迫るものがあってもの凄い。はっきり言って、セリフ回しがそれほど巧い人だとは思わないが、そんなことはどうでもいいんです。醸し出す雰囲気がもうとんでもない。完全に心臓鷲づかみだ。
後から読んだインタビューだけど、真木はこれまで撮影中でも割と役と自分とを分けられる自信があったそうな。だけど、この映画に関しては何度も精神状態が危うくなりかけたという。実際、入院しているシーンでは、明らかに彼女の顔は痩せ細っていた。彼女曰く、役に入り込みすぎて物を食べても吐いてしまうような状態だったそうだ。まるでデ・ニーロの逸話を髣髴させる話。役への入り込み方がハンパじゃないんだろう。
そして一撃必殺のあの目…。瞳の奥に暗い情念の焔がゆらゆら揺れているようなあの目だ…。あれはもう反則だろう(笑)。あんな目で刺されたらオレ、たちまち金縛りだぜ(苦笑)。

えーと、勢い余って真木よう子のことばかり書いちゃいましたが(苦笑)、映画そのものも勿論見応え充分。ただ、話は相当にヘビーだし、観客に解釈を委ねる部分も多いから、娯楽色の強い映画が好きな人は戸惑うだろう。Yahoo!のレビューが意外に低いのもそういう理由なんじゃないかな。
ただ、日本映画はこういう作品がどんどん出てこなきゃダメだと思う、オレは。1から10まで説明して観客に迎合してるような作品ばかりじゃ、そんなのテレビの帯ドラマと変わんなくなっちゃうでしょ。

最後にひとつ。エンディングの真木よう子の歌、あれを無くても良いとか、下手くそだとか言ってる人がいるらしいが、それは違う。あれは真木よう子が歌ってるんじゃない。かなこが歌ってると聴くべきなんじゃないだろうか。あの歌を歌ってる段階でも、真木よう子の肉体にはまだかなこが憑依していたんだと思う。つまり、あの歌がラストで流れることで、映画はようやく完結したんだとオレは思いました。

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2013年6月11日 (火)

キャパの十字架/沢木 耕太郎 (著)

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これは戦場カメラマン、ロバート・キャパの有名な写真「崩れ落ちる兵士」にまつわる謎を、ノンフィクションライター沢木耕太郎が追った本。「崩れ落ちる兵士」ってのは、キャパが1936年に撮影したもので、長い間兵士が銃撃を受けて倒れる瞬間を捉えたものとして戦争の悲惨さを訴える象徴的な写真とされてきました。ところが、これはあまりの迫真性ゆえ、昔から真贋を問う声や、果たして本当にキャパが撮ったものなのかどうかという疑義が呈されてもきました。自らもキャパを信奉して憚らない沢木さんは、この長年の疑問を解くべく真っ向から写真の検証に臨んでいます。

いやあ~とにかく面白いっ!当時の掲載誌の確認や関係者への取材にはじまって、幾度もの現地訪問を重ねてのリアルな撮影場所の特定や、実際にキャパが使っていた機種を使っての撮影実験など、緻密な検証を積み重ねて真実に迫ってく様はとてもスリリング。下手な推理小説なんか足許にも及ばないな…。読み始めたらあまりの面白さに、もう止められない止まらない(笑)。寝る間も惜しんでページを捲り続けました。

ただ、これは大事なとこだと思うんですけど、沢木さんは決してこれをキャパの偶像を剥ぐような目的で書いたわけではないと思うんです。謎解きの楽しさもある本だから、ちょっと結論は書けませんが、沢木さんは、キャパに対して「ただ視るだけしかできない」というカメラマンや報道記者に共通するある種の哀しみを見出していたんだと思うんですよね。そして、あまりにも有名になってしまったこの写真の真実を追うことが、もしかしたら写真家キャパの真実の姿を捉えることに繋がるんじゃないかと確信していたんだと思うんですよね。
だから、この本で一番沢木さんの書きたかったのは、実は謎を検証する道程ではなく、「キャパへの道」と題された最終章だったんじゃないかとも思うんです。
ここからは僕の意見なんですけど、実は「崩れ落ちる兵士」に関しては、この本にも書かれていないもう一人の重要人物がいるはずだと思うんですよね。それは、この写真を雑誌に掲載することを決めた編集者。彼は、この写真が撮られた状況をキャパに確認することもなく雑誌に掲載したことで、良い意味でも悪い意味でも大きな論争を巻き起こしました。だけど、その編集者だって「崩れ落ちる兵士」の持つ迫真性が、戦争の悲惨さを広く訴えるに違いないと思ったからこそ掲載を決意したんだろうし、そこには一点の曇りもなかったはず。
編集者の思惑は見事に当たり、「崩れ落ちる兵士」はスペイン内戦の共和国軍の悲哀を象徴するものとなりました。言い方を換えると、この時点で写真は撮り手の手もとを離れ、“世の中のもの”となっていったわけです。そうなったら、持たされた意味の大きさに、当事者でも口を開けなくなるのは当然だと僕は思うなあ…。

ただ、キャパ自身が「崩れ落ちる兵士」に複雑な感情を持ち続けていたのもまた確かだと思うんですよね。後にキャパが撮った、真贋の疑義を挟み込む余地もないほどの傑作「ノルマンディー上陸作戦」。これ、ある種の“落とし前”だったんじゃないかと僕は思うんですけど…。
オレ、思った。もしかするとこういうことって誰の人生にでも起こり得ることなのかもって…。HOLE IN MY LIFE…。人生ってのは、何処かでうやむやにしてしまった物事は、また何処かで代償を払うようにできているんじゃないでしょうか?
翻って自分。僕はキャパほど大きな事は成し得ていませんが(当たり前です!)、45過ぎてからマラソンを走ったのも、ある種の“落とし前”だと思ってます。そうやって、人は忘れ物を拾い集め、代償を払いながら歳を重ねていくものなのかもなあ…。な~んてことを「キャパの十字架」を読んでて思いました。

うーん、考えすぎてもなんだな…。今夜はちょっと呑もう。ブルース・スプリングスティーンの「PRICE YOU PAY」を聴きながら…。

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2013年6月10日 (月)

仲井戸"CHABO"麗市×石田長生 ひ、ひさしぶりの共演サンキューヨンキュー / 2013年6月9日(日)南青山MANDALA

このライブは、CHABOも勿論よかったんだけど、久々に観る石やんのギターと歌心に心臓を鷲づかみにされましたね。この人のギターは、一言でいうととてもカラフルなんですよね。音の輪郭がはっきりしていてまるで原色の絵の具みたい。もう、ステージに出てきて一音ならしただけで“おおっ!”となってしまいました。
この日はアコギのみを何本か使い分けてましたが、大胆なカッティングと繊細な指使いにもうクラクラ。お馴染みのドクター・ジョンのカバー「IKO IKO」は、ギターのボディを叩いてパーカッシブな音を出し、南青山の地下をニューオリンズのエキゾチックな酒場に早変わりさせる…。そうかと思えば、生まれ育った大阪南の町と一時住んでいたアメリカ南部とを掛け合わせたタイトルの新曲「MINAMI」で限りない旅愁を抱かせる…。とにかく、一曲一曲が強い印象を残す曲ばかりで、CHABO目当てで来たと思われるお客さんも、あっという間に石やんの世界に惹きこまれてました。
中盤では栗原清志(清志郎じゃんく、石やんはそう呼んでました)に対する想いもチラリ。お馴染み「安楽荘」の話(空の上には亡くなった偉大なミュージシャンたちの住んでる「安楽荘」があって、そこでは夜な夜なセッションが繰り広げられてるってな話)に続け、そこへ日本人として初めて入居したことを許された人がいるってことで演奏された「世間知らず」はヤバかったなあ~。石やんは昔からこの曲が大好きでことある毎に歌ってるけど、こんなカタチで歌われるとほんとヤバい。オレ、もう少しで涙腺が決壊しそうだったっす。
石やんon stageはたっぷり一時間。観客からは大きな大きな拍手。ここ最近は誰かとの共演ライブが多いCHABOですが、僕が知る限り、これまでのゲストの中でも石やんが一番大きな拍手をもらってたかも…。

対するCHABOも一時間ソロ。こちらはいきなり「幻想の旅人の歌」からという意外な出だし。やっぱイイねえ~。2曲目は“6月しかやらない曲を…”ってことで「ねえHISAKO」。観客からの“ヒューヒュー”という冷やかし(?)に照れながら歌うCHABOが可愛い(笑)。
ぐっときたのは“石田が清志郎の曲をやってたから、オレもRCやっていい?”と言って歌われた「たとえばこんなラブソング」。驚いたことに、これは曲が出来た当初のアレンジで演奏された。このアレンジで演奏したくなった理由、なんかあったのかなあ?
誰かと共演するときは必ずゲスト曲のカバーをやるCHABO。この日選んだのは「タマナの木の下で」。波のSE入りで演奏されたこの曲は夏のムード満点だった。その他にも「キューバの歌」とか、この日のCHABOは最近あまりやらなかった曲をやってくれてた。声もよく出ていた感があったなあ。やっぱ、このところライブが続いてるからか?ミュージシャンはオフが長いよりプレイし続けてる方が調子が良いんでしょうね。
CHABOのソロ最後は新曲「川」。過ぎ去りし日々を慈しむ気持ちと、いなくなってしまった人を愛おしむような曲調で強い余韻を残す曲でした。

アンコールがまた良かったんだな。出だしは殆ど打ち合わせしてないという即興ブルースでの共演。これは二人がギターで絡むだけでなく、即興でボーカルも挟み込むのが面白い。が、こういう展開になれば、やっぱ関西人石やんには適わない(笑)。「ねえHISAKO」の歌詞を借りて“すぐに行くよ、助けに行くよ、ねえCHABO”は巧いなあ~と思わず感心。CHABOはだんだんネタが切れてきて、最後はやけくそ気味に“BAHOの人~!”って叫んでたのが笑えた(笑)。
そしてなんつっても「ティーンエイジャー」ね。これは石やんが大好きなCHABOの曲で、アレンジは多分石やんが普段やってるバージョンなんだと思うんだけど、これがCHABO以上にオリジナルなタッチびんびんで…。いやあ~泣けたなあ…。
そのあとは二人の共通項ザ・バンドのカバー2連発なんだから、もうたまりませんっ!CHABOボーカルの「トワイライト」、そして石やんの「The Weight」。石やんの方はサビのコーラスを観客も一緒にコーラス。なんか、すごく幸せな気持ちになったなあ…。

最後の最後は石やんのボーカルでじっくりと「Brothers&Sisters」。ぴったり3時間。素晴らしいライブでした。
“次の共演はまた10年後にMANDALAで…”なんてCHABOは言ってたけど、そんなこと言わずに時々こうして一緒に演るべきじゃないだろうか、この二人は。同じ時代を生きたギタリスト同志、お互いがお互いを戦友と認め合う者同志の、少年の日に戻ったようなキラキラした瞳が、なんだか僕のは眩しかったです。

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2013年6月 9日 (日)

細野晴臣「Heavenly Music」コンサート/2013年6月08日(土)日比谷公会堂

細野晴臣 (Vocals,Guitar,Piano,)、高田漣 (Electric, Acoustic & Steel Guitars,Mandolin,)、伊藤大地 (Drums)、伊賀航(Contrabass, Electric Bass)、コシミハル (Accordion,Piano,)
ゲスト:岸田繁
シークレットゲスト:青葉市子、林立夫

実は日比谷公会堂でライブを見るのは初めて。でも、一歩足を踏み入れた途端、なんで細野さんがここを会場に選んだのかすぐにわかりましたよ、ワタシは。建物全体から昭和の香りが漂ってきて、雰囲気たっぷりなんだもん。まるで今にも蓄音機を通した昭和歌謡の調べが聞こえてきそうな感じ。久々にライブというより“コンサート”に来たという気持ちにさせてくれました。そして、このムードは、今の細野さんのスタンダードナンバーを中心に演奏するライブの雰囲気にもぴったりだったのでした。

この日のライブ、演奏されたのは5月に出たアルバム「Heavenly Music」からの曲が中心。ここ最近細野さんはアルバム毎にボーカル回帰していて、今回取り上げられたのは40年代のカントリーやミュージカル、ブギウギなどのカバー。はっきり言って、新しいことは何もやってません。スタンダードをスタンダードらしく、忠実に演奏しただけです。だけど、これがものすごくぐっときちゃうんだよね~。
たぶん、このバンドはライブアレンジとか、相当綿密にやってるに違いないと思う。シンプルで当たり前の演奏なんだけど、一音一音にまったく無駄がない。特に、SAKEROCKのドラマー伊藤大地くん、巧いなあ~。手数が多いわけでもなんでもないのに、静かなグルーヴでぐいぐいバンドを引っ張っていくのが、見ててすごく小気味良かった。
そして、なんと言っても高田漣!いやあ~いつの間にこんなすごいギタリストになっちゃったの?!スティールギターやマンドリン、エレキと幾つも楽器を使い分け、シンプルな曲調に鮮やかな色合いを加えていたのには驚かされた。漣くんは使ってる楽器はトラディショナルなものばかりだけど、サウンドはすごく今風。スティールギターだって全然カントリー臭くないんだもん。ハワイアンっぽいフレーズすらどことなく宇宙的に聴こえるし…。うーんなんつったら良いんでしょうね、この人の魅力。明らかにアンビエントを通過してきてる伝統ギター奏者。こんな人は世界中見渡してもあまりいないと思うんですが。
もしかすると、一歩間違えばノスタルジック一辺倒になってしまいそうなサウンドなのに、決してそうならなかったのは、この二人がいたからかもしれない。

えーと、主役の話がまだでしたね(笑)。細野さんはほとんどの曲でボーカルを披露してくれたんだけど、やっぱりイイ声だなあ~。あの低音の歌声とアコースティックなバンドサウンドは良く合う。アルバムでもそうだったんだけど、ライブでも主役なのにヴォーカルが前面に出てこないで、バンドサウンドに溶け込むような感じなんだよね。失礼なことを承知で言っちゃうと、これはもう、おじいちゃんの歌ですな(笑)。アメリカの田舎町のおじいちゃんが、干草の上に寝転びながら鼻歌を歌うような、そんな味のあるボーカル。ライブ中盤では、何曲か青葉市子とのデュエットもあったんだけど、これなんかもうおじいちゃんと孫の共演(笑)。でも、青葉市子って子もスゴイよね。ぽわーっとしてるんだけど、細野さん相手に全然物怖じしてなかったもんなあ。やっぱ、新しい世代の音楽家なんですね…。
1曲目・2曲目ではピアノを演奏。細野さんのピアノってのもボーカルと同じでなかなか味があるんですよ。それを引き立てる、裸電球みたいな照明の演出も素晴らしかった。

時間は1時間30分と短かったけど、素晴らしく充実したコンサートだった。オレ、こんなに一音一音かみ締めるみたいにして音楽を慈しんだのって、久々かもしれない…。
ところで、アルバムとライブのタイトルになってた「Heavenly Music」ってどんな意味なんだろう?天上の音楽ぐらいの意味?細野さんたちの世代っていうのは、欧米の古き良き音楽を日本流に解釈し、今に通じる素晴らしい日本のポップスを作ってきた人たち。今の細野さんは、そこからまた原点に立ち返って先代の音楽をリスペクトしながら歌ってるんだと思う。今はあまり良い時代じゃないかもしれないけど、こうして音楽の原点で僕らを温かい気持ちにさせてくれる、職人のような人たちも確実にいてくれる…。そういうのって、何物にも変え難い日本の財産なんだなあ、なんてことも柄にもなく思いましたね。

セットリスト
01. I'm Going In A Field
02. インストゥルメンタル
03. Gradated Grey
04. My Bank Account Is Gone
05. Close To You
06. The Song Is Ended
07. Something Stupid(+青葉市子)
08. 悲しみのラッキースター(+青葉市子)
09. 日本の人(+青葉市子)
10. When I Paint My Masterpiece(+岸田繁)
11. 風をあつめて(岸田繁ソロ)
12. グッドモーニング(岸田繁ソロ)
13. ラムはお好き? part 2(+林立夫)
14. 香港ブルース(+林立夫)
15. Body Snatchers(+林立夫)
16. Tutti Frutti(+林立夫)
17. The House Of Blue Lights(+林立夫)
アンコール
18. Radio Activity
19. Pom Pom 蒸気(+青葉市子+岸田繁+林立夫)

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2013年6月 6日 (木)

『ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ』/円堂都司昭 (著)

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大変面白く読みました。いやあ~、これはもしかしたら僕みたいなおっさんの音楽好きが、今の多様な音楽の接し方を俯瞰するには最適のテキストかもしれないです(苦笑)。
タイトルどおり、円堂さんは音楽のきかれ方が「聴く」から「遊ぶ」に変わっていっていることを、いろんな事例を挙げながら語っていきます。著者が基本的な考え方のフレームとして出してきたのが「分割」「変身」「合体」という3つの単語。

分割:「作品」としてのまとまりを分割、分解する手法。(例:音楽配信=アルバムでなく曲単位への購入スタイルの変化。フェスティバル=アーティストの単独ライブではなく、雑多なジャンルをバイキング形式で楽しむスタイルへの転換)
変身:音楽の形を変える手法。(リミックス、マッシュアップ、着うたなど)
合体:音楽に関し、それを作り演奏したアーティスト以外の人間がかかわる(合体する)ことで遊ぶ(ボーカロイド、音楽ゲーム、エア芸、アーティストとタイアップしたパチンコなど)

こんな感じです。今の若者の音楽への接し方を見てると、確かにこの3つのスタイルに当てはまる割合はすごく高いように思います。そして、このフレームで「遊ぶ」連中も増えてますよね。ニコニコ動画に「歌ってみた」「踊ってみた」って自作の動画をアゲる連中、たくさんいるでしょ?カラオケだって「合体」の形態の一つ。CDが売れなくなったって言うけど、今の若者が音楽そのものと接してないわけでは決してないんだよね。ただ、そのやり方が僕らとはだいぶ違うかもしれないけど…。

円堂さんは、こういう変化はどっかを節目に突然パッと変わったわけじゃないとも言ってます。古くはウッドストックやカラオケなどを通過することで、徐々にリスナーが受容する空気が出来あがったんだと。若者と僕らおっさん世代は別に分断されてるわけではなく、むしろ、僕ら世代も今みたいな状況が生まれる芽をいくつも育てながらここまで来ちゃったってこと。まあ、通信カラオケはネット配信の走りと言えなくもないし、口パクやってるPerfumeや楽器を演奏しないゴールデンボンバーが認められてるってのも、時代の空気を読んでの暗黙の同意事項が出来あがってるからなんだろうし…。

でも、どうなんだろう…。ぼくはやっぱり音楽は「作品」だと思う。そういうのを自分の手で加工して「遊ぶ」のにはものすごく抵抗を覚えてしまいます。逆に、そんな風なやり方でしか音楽と接することができないのなら、それはもはや僕が思う音楽の概念とは違っちゃってるような…。ただ、じゃあサンプリングやDJプレイもダメかって言ったらそうでもないわけで、その辺の線引き基準は自分でも良くわかりませんけど…。

一つ思うのは、ネットや携帯電話の発達が社会のいろんなモノのソーシャル化を進めたと僕は思うんだけど、音楽に関して言えばそこで失われたものって決して小さくはなかったと思うんです。つまり、生まれた時からそんな環境が当たり前だった若者たちにとって、音楽を聴く道具は圧縮音源を使った携帯プレーヤー、パソコン、携帯電話しか思い浮かばなくなっちゃってるじゃないですか。僕らはそれ以上に音の良いものも知ってるけど、若者たちはそもそも音の良さより使い勝手と面白さ優先だから、そんなものに触手を伸ばさない。まして、今の若者にとって欲しいものの優先順位は一にスマホ、二にパソコン。楽器なんてのはずーっと後ろでしょ。そう考えると、バンドをやるなんてのは限りなくマニアックな行為なんだよなあ(苦笑)。こんな状況だったら、洋楽が売れなくなるのもしょうがないのかなあ、なんて…。

この前、「J-POPのグローバル化」についてのシンポに出た時も思ったんだけど、僕らの世代が死んじゃった後、音楽ってどうなっちゃうんでしょう?スピーカーの前でただ耳を傾けること自体が、ものすごくマニアックな行為になっちゃったりして…(苦笑)。なんか、そういうのすごく嫌だなあ。理屈じゃなくて生理的になんかすごく嫌。単なるおっさんのノスタルジーって言われちゃうかもしれないけど…(苦笑)。

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2013年6月 5日 (水)

Magical Chain Special ~ early summer 2013 ~ 「オトナ・ロックナイト」/ 2013年6月2日(日) 横浜 ThumbsUp

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Magical Chain Special ~ early summer 2013 ~ 「オトナ・ロックナイト」/ 2013年6月2日(日) 横浜 ThumbsUp 
【出演】MAGICAL CHAIN CLUB BAND(Pf&Vo:リクオ、G:ウルフルケイスケ、B:寺岡信芳、Dr:小宮山純平)/カーネーション

いやあ~盛り上がりましたっ!これはもうタイトルに偽りあり。オトナな夜なんて大嘘です(笑)。なんとオトナ気ないロックナイトだったことか!

ライブは最初にカーネーションが登場。実は僕、このバンドを観るのは初めて。直枝政広のソロや大田譲とのデュオは観たことがあったけど、完全エレクトリックのカーネーションは印象が全然違ってました。直枝さんのエレキ、カッコいいじゃないですか~っ。シンプルなR&Rかと思いきや、フレーズにニューウェイブっぽい香りもちらほら。大田さんのベースもファンキーな味わいチラリで、いやいや一筋縄ではいかない捻じくれ度。サイケデリックな歌詞がアンプリファイアーに増幅され、よりいっそう引き立ってました。カーネーションの演奏はたっぷり1時間。これだけでも見応えありましたね~。

短い休憩を挟んで、待ってましたのMAGICAL CHAIN CLUB BAND。これがまたカーネーションに輪をかけてのベリー・スペシャル・R&R!リクオ、前日は群馬のお寺でライブをやったばかりだというのに、元気元気。アッパーな曲ばかりなのにまったく疲れを見せず、ガンガンにぶっとばしてました。ウルフルケイスケは青いコンポラスーツにお馴染みのテンガロンハット。足元に目をやるとカラフルなバッシューを併せてるところが何気にお茶目(笑)。お客さんのテーブルぎりぎりまでせり出してギターを弾きまくり、エンディングでは再三にわたってジャンプ!いやあ~やっぱこの人は華があります。

ほんとのこと言うと、僕は最初リクオ・ファン目線でこのバンドに接してたんで、MAGICAL CHAIN CLUB BANDのあまりにもアッパー過ぎる曲調には違和感もあったんです。リクオの魅力ってのは、もちろんR&Rなアゲアゲモードもあるんだけど、じっくり歌いこむ内省的な歌の部分もすごく大きい。そういう色はこのバンドには殆どないからね…。
でも、3.11後のリクオのコメントを読むにつれ、ウルフルケイスケという人と一緒に音楽をやることが、リクオにとって如何にいいバランスになってるかがよくわかりました。そして、僕自身もMAGICAL CHAIN CLUB BANDのアルバムを聴いて励まされていることに気が付いたりして、いつの間にかこのバンドが大きな存在になっていったんです。
この夜のライブは、そんな自分の気持ちがより確かになった感じ。新曲がまた良かったんだなあ~。突き抜けた感がハンパない。なんかこう、ストロングスタイルばりばりの実力派プロレスラーが、あえてエンタメ色満載のアメリカン・プロレスをやってるような感じって言えば解ってもらえる?(笑)

とにかく、3時間があっという間。仲間と飲みながら騒ぎながら観たライブ、ほんと楽しくてオトナゲない夜だったなあ~(笑)。
シリアスなことも考えざるを得ない時代。だけど、こうやって真剣にバカをやりながら陽気にやってく気持ち、絶対忘れちゃダメだと思った。MCCB、ええぞ~。7月のライブも絶対行くぞ~!

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2013年5月23日 (木)

「矢野顕子、忌野清志郎を歌うツアー2013」/2013.5.22(水) 渋谷公会堂

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「矢野顕子、忌野清志郎を歌うツアー2013」のファイナル、渋谷公会堂公演に行ってきました。
実は僕、イベントでは何度か観てますけど、矢野顕子の単独ライブを観るのは初めて。今回足を運ぼうと思ったのは…言わずもがなの理由です(笑)。

いやもう、予想をはるかに超えた素晴らしいコンサートでした。オレ、CHABO以外の人が歌う清志郎の歌で、これほどぐっときたのは初めてかもしれません。この人がどんな曲を歌っても自分流に表現してしまうってことは、もちろん知ってましたが、これほどまでとは…。しかも、ぶっ飛んでても原曲の片鱗はちゃんと残ってるんですよね。何より、これだけ崩しまくってても、曲が全然難しくなってない。すごく楽しくてのびのび。矢野顕子の歌う清志郎SONGSには、とても自由な風が吹いてました。
唄ってるアッコちゃん自身も、曲の中に入り込んで思い切り遊んでるのが客席にもビンビン伝わってきました。今更ですが、矢野顕子スゴいわ!音楽家としての圧倒的な力量を感じましたね。

この日はモノマネの清水ミチコがゲストで登場。これも予想に反して(と言ったら失礼ですが)すごく良かったんです。「丘を越えて」や「帰れないふたり」なんかを演ったんだけど、もちろん清水さんはアッコちゃん本人や井上陽水のモノマネで…(笑)。こんなの、ちょっと間違えたらキワモノ企画になりかねないじゃないですか。ところがところが、全然違和感なかったんですよ。清水ミチコ、お世辞抜きにピアノも歌もめちゃめちゃ巧い。何より、矢野顕子のことが心から大好きなことが伝わってきて観てて胸がほっこりしました。

矢野顕子が清志郎のどの曲を歌うのかも興味あったけど、けっこう最近のものが多かったなあ…。それに“清志郎の書いた曲で私が一番優しさを感じる曲”と言って「セラピー」が歌われたのも意外だった。コアなRCファンでも、これが大好きだって人にはあったことないもん…。やっぱ、こういうのは音楽家ならではの感性なんでしょう。

そう、このコンサートがかくも素晴らしいものになったのは、矢野顕子が彼女流に清志郎の曲を解釈することで、単なるトリビュートとか、偲ぶ会的なものを超えた、純粋に音楽的な感動を呼び起こしたからだと僕は思うんだよね。
ノスタルジックとかメランコリックってのは、人間の感情の中でも最も共有しやすい部分だと思うんだけど、あんまりそういう気持ちに振り切っちゃった表現ってのは、僕はあんまり好きになれないんです。それはやり方としてちょっと甘いというか、ずるいと思う。そういう安っぽい表現は音楽に対して失礼だし、音楽のコアの部分からからはどんどん離れていっちゃうと思うんです。
もちろん、矢野顕子個人は清志郎に対する感傷的な想いだってあるはず。でも、この夜の彼女は、そういう気持ちを抑えながら一人の音楽家として清志郎の楽曲に誠実に向き合ったんだと僕は思うんです。矢野顕子という稀代の音楽家が、忌野清志郎というこれまた稀代の音楽家に対峙し、音楽の持つ力だけで清志郎への想いを昇華しようとしたのが、このツアーだったんじゃないかと僕は思います。そして、そんな彼女の想いは、満員の観客にもちゃんと伝わっていたと思いますよ。
音楽ってのはスゴイよなあ…。こうやって、ここにはいない人とも繋がれるんだもんなあ。昨夜の渋谷は月が綺麗でした。アレはきっと清志郎が笑いながら僕らを見てたに違いありません。

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2013年5月 6日 (月)

2013年5月6日(月・祝) / ThumbsUp 15th ANNIVERSARY SPECIAL LIVE 祝! ThumbsUP「3人でSHOW」@横浜・THUMBS UP 出演:仲井戸"CHABO"麗市、Leyona、沼澤尚

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この3人、CHABO×Leyona、沼澤尚×Leyonaの組み合わせは何度かアリ。沼澤尚×Leyonaなんてユニットで小さいツアーを廻ってるぐらいだから、お互い気心しれてるところもあるはず。
でも、3人一緒ってのは去年イベントで数曲演奏しただけなんだよね。だから、フルサイズのライブをどういう組み合わせでやるのかがまずとても楽しみだった。結果としては、1部がLeyona×沼澤。休憩を挟んで2部がCHABO×沼澤。アンコールが3人で共演という構成。まあ、アンコールと言ってもCHABOのライブはいつも長いから実質的にアンコール以降は第3部だけど(笑)。いずれにしても、沼澤尚は出ずっぱりだったわけで、この日のライブのキーは沼澤さんが握ってたような気がするなあ…。

1部のLeyona、いやあ~やっぱイイ!ボーカルの巧さは言うまでもないけど、ギターの腕前が一段と上がった。何より思い切りがイイもん、彼女は。沼澤さんに対しても物怖じせず、大胆なカッティングで絡んでいくのはほんと気持ちが良かった。なんつうか、小股の切れ上がったステージングなんですよね(笑)。とっちらかったMCもめちゃキュートだし、おぢさんはもう目尻が下がりっぱなしでござったわ(笑)。
いつもいつも言うことですが、Leyonaの声は本当にエモーショナル。この時代、ボーカル教室出身で~すみたいな、ただ歌が巧いだけの歌い手はいくらでもいる。だけど、木目の温もりが感じられるようなローファイなボーカリストはなかなかいないと思うのだ。Leyonaには間違いなくそれがある。

CHABOはいつもよりだいぶリラックスした感じ。これは、この会場でライブをやることへの安心感もあるんだと思う。サムズアップはステージと客席が近く、盛り上がるライブはとことん盛り上がるんだけど、CHABOはこの会場ととても相性が良くて、いつも大声援で迎えられて、ライブもめちゃ盛り上がる。この日もCHABOが姿を現すだけで大歓声。そんな良いムードの中、CHABOには沼澤とのセッションをとことん楽しもうというタッチが感じられた。
キックオフが「you gotta move」、続けてMG'Sの「Green Onion」と、序盤はいつも以上にブルース、R&B色の濃い展開。中盤にはボサノバタッチの「おいしい水」なんかも挟んで、ちょっとここ最近なかった選曲が面白かった。圧巻は沼澤さんのドラムソロが炸裂した「ボルテージ」。千手観音みたいなスティックさばきに圧倒された。

アンコールはLeyonaを中央に据えてのトリオセッション。これは本当に楽しかった。LeyonaがCHABOや清志郎を大大リスペクトしてることは有名な話。それだけに、久々にCHABOと共演することに緊張しつつも嬉しさを隠し切れない感じだった。「魔法を信じるかい?」なんて、見てるこっちまでほのぼのしてしまったもんなあ…。CHABOのギターでデビュー曲「オレンジ」を歌ったシーンは、デビュー当時から彼女を見てる僕にも胸に迫るものがあった。加えて「君が僕を知ってる」や「ブン・ブン・ブン」まで!うーん、たまんねえ…。
途中の休憩を除いてもトータルで3時間近いボリューム。見所いっぱいでホント楽しかった。

余談だけど、サムズアップは知り合いと飲んだり食べたりしながらライブを観るスタイルのお店だ。僕自身も、この日はCHABOのライブを観に全国遠征してた頃に知り合った友達と10年ぶりぐらいに再会したり、いつもライブを一緒に観てる友達のお子さんとの初対面があったり、近くの席にいたお客さんが偶然にも同郷で、故郷の話や昔のライブの話(R&Rオリンピック!)で盛り上がったりと、嬉しい出会いがいっぱいあった。
家で音楽を聴くのももちろんゴキゲンだけど、街に出ていろんな人と直接繋がるのもライブの大きな魅力だと僕は思っている。そういう意味でも、ここは素敵なことが起こりそうな予感を感じさせるところなのだ。
横浜サムズアップ、やっぱ大好きなお店!ここには間違いなく音楽の神様が住んでます。

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2012年12月18日 (火)

嵐のあとで

うーーん…。

民主党が政権党の座を滑り落ちることは薄々予測していたけれど、まさかこれほどまでに差が付くとは…。
自公併せて320以上の議席を確保したってことは、理論上は参院で否決された法案でも、衆院で再審議すれば可決できてしまうということになる。原発の再稼働も、TPPも、消費税増税も、だ…。

怖いのは、今の自民党は、僕らが子供の頃に高度経済成長の日本を支えていた「偉いおじさん」のいる党ではないということ。日本経済再生のためなら、弱者を切り捨てる政策だって何のためらいもなく断行してしまいかねない。そして、何よりも怖いのは党首自らが平和憲法改正を公言していることだ。

おかしいと思うのは、選挙前の世論調査では、自民党の支持は2割程度だったということ。それなのに、いざ選挙になったら、トモダチの公明党と併せると2/3の議席をとれてしまうのだ。これは一体どういうことなのだろう?
多くの人が言うように、低い投票率の中で反自民が乱立し、漁夫の利で小選挙区での自民が圧勝したのであれば、これはもはや選挙制度そのものに問題があると言わざるを得ない。これは果たして、国民の意思を反映したものと言えるのだろうか?
若者に至っては、投票率は4割を下回っているという話もある。投票率が低いと、組織票が期待できる大型政党に有利になると言われ、選挙前にはネットを中心に若者の投票を呼び掛ける声も目立った。それがこの有様だ…。

ネットには若者意識の低さを嘆く声もあるが、本当にそうなのだろうか?今回の選挙に関しては、大人であるはずの僕でさえ、どこに投票したらいいものかすごく迷ったのだ。普段、政治に関心のない若者が投票所に足を運ばないのは、当たり前と言えば当たり前のような気がする。 そんな若者の目を向かせるような報道を、マスコミはしていただろうか?

自民党による新内閣が組閣されるまで、もう何日もない。
僕は、何よりも自分の故郷の将来を左右するであろう、原発事故担当大臣が誰になるのかが気がかりだ。

今までは、選挙の結果を見ても溜息だけだった。 でも、今回は違う。何か、怒りに近い感情が腹の中に渦巻いている。

本当に、本当にこの国はいったい何処に向かっているのだろう?

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2012年12月 3日 (月)

【本】社会を変えるには (講談社現代新書)/小熊英二

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予想どおりと言えば予想どおりなんだけど、暮れも押し迫ったこの時期、日本は選挙モードに突入した。だけどオレ、今回はほとほと困っちゃってんだよね。なんとかしてこの状況を変えてほしい、変えたいと思ってるんだけど、投票したい党、当選して欲しい人がほんとにいない。
毎回選挙のたびに困った、困ったって言ってる気がするけど、今回は本当に切実。これほどの焦燥感は、自分が選挙権を得て以来、はじめてだ。だって、この国はこれほど景気が落ち込んでいる時期に、あれほどの災害と大事故を受けているのですよ。ここで選択を誤ったら、日本はほんとにもう立ち直れなくなっちゃうんじゃないだろうか…。この本を読もうと思ったのも、そんな藁をもつかむ思いからだ。夏ぐらいから話題になってる本だってことは知ってたんで、なんとなく来たる選挙に対するヒントが見つかるかな、と思って…。

結論から言うと、そんなものは見つからなかった。当たり前だ。そもそも、これは“答え”を出そうと書かれた本ではないんだから。ただ、そもそも“社会が変わる”とは、どういう状態を言うのかすら、オレにはわかってなかったんだなあ、ということはよく解った。それだけでも僕にはとても大きな収穫だったと思う。

この本は、今の日本の現状を確認したうえで、戦後の社会運動を振り返り、民主主義や自由主義の歴史まで遡って、どうすれば”社会を変える“ことができるのかを探っていく。
正直言うと、第4章から第6章までの部分は、大学の科目にあった歴史学や哲学、政治思想史なんかを連想させ、読むのにかなり体力を要した。まあ、”社会を変える“という壮大なテーマを一冊の新書にまとめようとするならば、こういう方法をとるしかなかったのだろう。苦労して読み込んだ分、読後にすとん!と落ちる説得力は確かにあったし。

この本を読むと、著者は3.11に起きた原発事故とそれに対する社会の動きに並々ならぬ関心を持っていることがわかる。脱原発デモに関する記述も多く、これが新しい社会の流れを生み出すのではないかと感じてもいるようだ。ちょっとデモの力を過信しているような気もしないではないが、歴史的な流れから脱原発デモを見る視点は“なるほど!”と思わせるものがあった。
原発事故はそれ自体も勿論深刻だけど、同時に戦後の硬直したシステムを白日の下に晒け出したことが、社会に大きなインパクトを与えた。脱原発デモはそのインパクトに対する市民の自然な反応なのだ。経済が20年も停滞し、もともと不満と政治不信が高まっていたからこそ起きたものだと著者はいう。かつての全共闘運動は担い手の学生が就職したら即終焉してしまったが、脱原発デモは、もともと自分の生活に不満を持っていたさまざまな身分の人たちが参加していて、いまや一億総中流意識もとっくに崩壊しているんだから、そう簡単には収まらないだろうと著者はいうのだ。

正直言うと、デモに関しては現場でいくら主張しても、それが実際の政治の現場に反映されなければ何も意味がないのではないかという気持ちも僕にはあった。
それに対して著者はこう主張する。デモや運動は“やること”自体に意味があるのだ。デモに参加するのが、かつてのような”特殊な行為”でなくなれば、それは誰でも自由に声をあげられる社会ができるということとイコールであり、より民主主義の理想に近づいたことになる。そして、運動に参加した人は、声を上げられる社会の到来を実感でき、自分自身が変化していくと…。

結局、著者の言いたいことは、“社会を変える”ためには“自分がまず変わらなければならない”ということなのだ。この本を読んで得た僕なりの答えは、社会を変えるには投票だけじゃない何かが必要なのだということ。うーん、投票に関するヒントが欲しいと思ってたのに、この本はその先を照らしていたんだなあ…(苦笑)。

本を読んでも、何かをしなければという焦燥感は募るばかり。
だが、それでもいいのではないかとも思う。八十年代以降、僕も含め、日本で政治への無関心層がどんどん増えていったのは、経済も雇用も安定していたからだと思う。無関心でいてもなんとか暮らしていけたのだ、少し前までは。そんな状況がどんどん陰りを見せ、徐々に高まっていた政治不信が原発事故で閾値を越えてしまった。僕の今感じている焦燥感は、閾値を超えてしまった不信感で身も心もやられてしまった結果なんだと思う。

選挙が終わった後、日本の景色がどうなっているか。その中で自分は何を考え、どう動いていくか。まだわからないけど、そのヒントはこの本の中に確かにあったような気がする。

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【映画】 黄金を抱いて翔べ / 監督・井筒和幸 原作・高村薫

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ん~~~。とても残念。これは高村薫の小説が原作なんだけど、その奥深さを半分も表現できていないと思った。
原作はとても長い小説でストーリに絡む人間関係も複雑。まあ、確かにそれを2時間半に落とし込むのは難しかったんだろうとは思うけど、だったら削るところは思い切って削るとかしないと…。おこがましいけど、それをどうやるかってのが監督の手腕なんじゃないだろうか?これはすべてを中途半端にぶち込んじゃったおかげで、終始バタバタした展開になっちゃったように思う。これじゃあ小説を読んでない人には、そもそもなぜ幸田たちがささやかな日常を投げ打ってまで銀行に眠る金塊を強奪しようと思ったのか、さっぱりわかんないだろう。

実は、僕は高村薫の小説が大好きなのだ。
彼女の作品を初めて読んだのは、もう15年ぐらい前だけど「神の火」というやつだった。これはかつて原発技術者でありながらスパイに仕立てたられてしまった男が、足を洗ってささやかな生活を送っていた時に原発襲撃プランを知ってしまい、、幼馴染みと共に諜報戦に巻き込まれてしまうというもの。とにかく、その緻密な構成と人間描写の生々しさに圧倒されてしまい、読み終わった後も三日ぐらい頭から残像が消えなかった。サスペンス小説の体裁をとってはいるけれど、これは純文学の大作にもひけを取らないとマジに思ったぐらいだ。
その後、他の作品にものめりこんだのだが、女史の作品には駄作が一つもない。すべてが代表作と言ってもいいぐらい、どれを読んでも完璧すぎる世界が構築されているのだ。

ただ、緻密で人間関係も細かく設定してあるからこそ、2時間半の制約があるシネマにはなかなか納まりきれない。女史の作品はこれまでにもいくつか映画化されてきたけど、はっきりいってどれも原作の良さを半分も出し切れていない。むしろ、テレビの連続ドラマの方が時間が長い分、丁寧に描かれていたと思う。
ただ、「黄金…」に関しては、あの井筒さんがメガホンをとるっていうんで、だいぶ前から期待してたんだけどなあ…。まあ、女史の小説のスケールのデカさは、鬼才をもってしても抑えきれなかったということなんだろう。

残念ではあったけど、俳優陣は健闘していた。特に、桐谷健太の演じた野田は僕の思う小説のイメージにぴったりだった。彼はこの2,3年ですごく成長していると思う。妻夫木聡もこういうダークな役が無理なくできるようになってきたし。うん、役者人の奮闘ぶりがこの映画の唯一の救いかな…。

きっと、高村女史の作品はこれからも何度となく映画化されていくだろう。いつかは彼女の壮大な世界を完璧に制御できちゃう監督が現れるかな…。そんな日が来るのを僕はじっくりと待ちたい。

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2012年11月25日 (日)

出場回避

この3連休はマラソンのゴールデンウィーク。
今日は大阪マラソンをはじめ、つくばマラソン、富士山マラソン、神戸マラソンなど全国でフルマラソンの大会が行われているはず。

僕も今日は富士山マラソンに出るはずだったんだけど…。んー、棄権しました。
先週罹ったウィルス性胃腸炎、もうとっくに治ってるんだけど、どうもだるさが抜けなくて。調整期に入っていたこともあり、走らない日が続いて気持ちもがちょっと萎えてしまった部分も大きいな…。このまま走っても、きっと辛いだけの42.195キロになってしまうだろう。もしかしたら、これがきっかけで走ることが嫌いになってしまうかもしれない。それは嫌。
そう思って、思い切ってここは休むことにしました。

そしたら、悪いことばかりは続かないもので、東京マラソンの二次選考で見事当選!来年2月にまた東京の街中を走れることになりました。気持ちを切り替え、今後はこれに向けてトレーニングしていこうと思います。

とりあえず、今日はLSD3時間。観光客で賑わう上野の博物館周辺をゆっくりとランしました。んだん体調は戻りつつあります。都心の公園なれど、上野の森は紅葉真っ盛り。その中を駆け抜ける喜びはランナーならではのものだなあ…。こういう小さな幸せを大事にしたいもんだ。

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2012年11月22日 (木)

【映画】「クロスファイアー・ハリケーン」 / ローリング・ストーンズ


ローリング・ストーンズの活動50周年を記念して製作された映画、東京では新宿ピカデリーでやってるんでさっそく観てきた。

この映画、70年代初めごろのストーンズが一番カッコいい時期の映像がぎっしりだ。ロックバンドのドキュメンタリーってのは、バンドの歴史を最初から最後まで万遍なく追っかけるのが定番だけど、これは全体の比重を思い切り全盛期寄りで構成している。僕はまずこれが嬉しかった。
だって、いくらストーンズと言えど、今のキースのどアップを延々続けられたら、それはちょっとキツイっしょ(苦笑)。そもそも、盆尺なバンドのドキュメンタリーは、なんとか現役感を出そうとするためか、過去のフィルムの間に現在のバンドのメンバーのコメントを映像付きで挿入したりなんかしがちなのだが、これが僕は大嫌い。だって、どう考えたって全盛期と比べれば容姿の衰えは否めない。現役かどうかは、やっぱり実際のライブの音で判断すべきなんじゃないだろうか?
その点、ストーンズは潔いと思ったね(笑)。まあ、冒頭にはロンドンでプレミア上映をした時の映像が挿入されていて、そこにはメンバーの最新映像が映ってはいるんだけど、これは完全に本編とは分断されている。本編ではメンバーによる解説だってナレーションのみ。いや本当に潔いっすよ、これ。勇気ある撤退に拍手(笑)。

冗談はさておき、僕はストーンズの映像に関しては、公式から地下までかなりのものを見ている自負があるんだけど、そんな僕でもここで使われたものの中には、初めて見るものが多くてびっくりした。
特に、60年代のライブ映像でブライアン・ジョーンズのパフォーマンスがここまで長めにちゃんと映ってるものは初めて観た。いやあ~やっぱりブライアンは只者じゃない。改めてそのカッコよさにシビれてしまった。ただハーモニカを吹いてるだけなのに、そのアクションや投げかけられる視線にヤラれてしまう。
最初期の頃は、ミックはお坊ちゃん臭いし、キースは猿みたいだから(苦笑)、ブライアンのふてぶてしさが一層際立っている。このバンドは、明らかにスタート時はブライアン・ジョーンズがボスだったのだ。
それだけに、その後の衰え方は悲しい。ロックンロール・サーカス以降の廃人になってしまったかのような佇まいは、25×5なんかでも垣間見ることができたけど、この映画に出てくる映像は、それとは比較にならないほど生々しい。もう、このころのブライアンはただ生きてるだけ、ただそこにいるだけみたいな感じ。キースもミックもどうすることもできなかったことがわかる。
彼らのバイオ本には、ミックとキースがバンドを乗っ取るためにブライアンを辞めさせたような書き方をしてるものも多かったんだけど、これを見れば、バンドを続けるためにはそれしか選択肢がなかったことがよくわかる。そして、それに関するミックの本心も、今回初めて聞いたような気がするのだ。“後からすごく後悔した”っていう発言には…。ぐっときたなあ、うん…。

その後の彼らは、まるでブライアンの分まで生き急ぐかのように、急速にカリスマ性を増していく。
70年代初頭の神がかり的なパフォーマンスには圧倒されてしまうし、オルタモントの悲劇に至るまでのどうしようもない運命の激流も、これまでのドキュメンタリーにはないリアルさがあった。
そう、この映画とこれまでリリースされてきた映像との明らかな違いは、この圧倒的なリアルさではないだろうか?60年代初頭のライブの混乱ぶり、ブライアンの死の悲しさ、オルタモントの背筋も凍るような怖さ、そのどれもが昨日のことのように生々しく迫ってくる。
それから、ステージ上での彼らだけではなく、バックステージや滞在先のホテルで寛ぐ彼らの姿なんかも映る。ツアー暮らしの中、ミックとキースが一つの部屋で仲良く「テル・ミー」の原型らしき曲を作っていて、それを若きアンドリュー・ルーク・オールダムが温かく見守っている映像なんか、妙に生々しくてこれは本人たちもかなりぐっときたのではないだろうか?

ミック・テイラーもビル・ワイマンもたっぷり出ている。それに比べると、ロン・ウッドは可愛そうなぐらい出番が少ないし、80年代以降の歴史はほとんど出てこない。これは、彼らの中でも自分たちが一番輝いていた時期は70年代中期だったという思いがあるからだろう。
11月25,29日にロンドンで行う50周年ライブには、特別ゲストという形で二人が出ることが既に発表されている。彼らは、脱退した後も転がる石であり続けたってことなんだろうな。

うん、スゲエ映画だ。“DVD買うから映画はいいや…”なんて思ってる人もいるかもしれないが、この生々しさはストーンズ・ファンなら絶対に映画館で体験しておくべき。映画が終わった後、オレはブライアンの奏でる 「No Expectations」の美しいイントロが耳から離れなくなった。

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2012年11月12日 (月)

ソツケン実施

僕がマラソン・トレーニングメニューを組むにあたっては、実は多くのものをあるコーチが書いた本を参考にしている。この人のマラソン・トレーニングは、坂道を下って足を鍛えろとか、走る前に7つ餅を食えとか、いちいち具体的なのがいい(笑)。

で、この人がレース本番前の仕上期に提唱しているのが、「ソツケン」と言われる15kmビルドアップ走だ。これは、最初の5キロをレースで走る想定のペースで走り抜け、5km~10kmはそれより1kmあたり10秒ぐらい速くしていき、残り5kmは一気に30秒近くアゲて走り切るというもの。これがクリアできれば目標タイムでゴールできる確率がかなり高くなるという。
本当は本番の10日前に行うのが良しとされているのだが、僕の場合、本番レースは25日の日曜日。なので、10日前は平日になってしまいハードな走りはなかなかできない。そこで、15日前になるけど10日土曜日に独りでソツケンをやることにした。

フルマラソンにおける僕の目標はサブ4(4時間切り)だ。ソツケンだと、最初の5kmまではレースペースの1kmあたり5:35秒で走り、10kmまでは5:25秒に上げていき、最後の5kmは一気に5:00までビルドアップすることになる。
いつもの上野公園で、GPS付きの時計を付けて走り始めた。結果、けっこう余裕を残してソツケンをクリアすることができた。これは自信になったなあ…。もちろん、最後の5kmは相当苦しかったけど、それでもラップによっては4:40秒台まで上がってたし、まあソツケン合格と言ってもいいんじゃないだろうか?
たった独りで走ってるから、こういう結果が目に見えるとすごく嬉しく、自信になるのだ。

日曜日は3時間LSDでゆっくり足を潰した。
レースまで残りあと2週間。微妙な調整期をなんとかうまく乗り切りたい。

【今後2週間の予定】
10日(土)ソツケン15㎞(5km毎にビルドアップ)
11日(日)180分LSD
12日(月)休養
13日(火)つなぎジョグ8Km(上野公園4周)
14日(水)レースペース走11.1Km
15日(木)休養
16日(金)つなぎジョグ8Km(上野公園4周)
17日(土)レースペース走11.1Km
18日(日)120分LSD
19日(月)休養
20日(火)つなぎジョグ30分
21日(水)レースペース走11.1㎞
22日(木)休養
23日(金)最終刺激2㎞(公園まで6:30でアップJog。5:00で公園2周。6:30くらいでダウンJog)
24日(土)休養
25日(日)富士山マラソン

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2012年11月 2日 (金)

うたかたの日々

早いなあ。もう11月かよ…。

最近はなんだかブログをアップするのがかったるくてしょうがない。ネットに繋げるのも最小限。来てるメールに一週間目を通さないなんてこともザラ。家に帰れば、即PCを起ち上げていた数年前の自分からは信じられないような堕落ぶりだが(苦笑)、リアルな生活はずっと充実しているのを感じる。

この2年ぐらいで僕は身体の組成が入れ替わってしまったみたいだ。もう、ツイッターでちまちまくだらねえことをつぶやいたり、ブログでたらたらと長い文章を書き込んだり、そういうことにはなんのリアリティも感じられなくなってしまった。
今、何よりもリアルなのは、自分の身体感覚。仕事やら家庭やら、さまざまな時間に拘束される24時間の中で、僕はたった独りで身体感覚を感じられる時間を何よりも大事にしたいと思うようになってきた。

僕にとって、走っている時間はとても大切。
今、月平均200キロ走っている。朝4時半に起きてランニングシューズを履き、暗いロードを自分の身体の感覚だけを頼りに駆け抜ける瞬間、僕は完全に孤独で完全に自由になれる。ぴんと張りつめた晩秋の冷気も、噴き出してくる汗も、何もかもが気持ち良い。
走る時、僕は音楽も一切聴かないことにしている。ただ自分の身体の奥からの声を頼りに、ペースを上げたり下げたりしながら10キロないし20キロの距離を走り切ることのみに集中する。
そんな日々を過ごしながら、時々ライブに行ったり映画を見たりする夜を挟み込んでいく。 そんな感じが今の僕には合っていると思っている。
以前は、ライブを観に行くのが日々の生活の張り合いだったりもしたのだが、今の僕はそうじゃない。今は自分の身体感覚が一番大事。他人の身体表現よりもだ。正直に言うと、ライブはあくまでも僕の日常の水平線上に起きる事象としてしか存在していないのだ。

CHABOのライブに行った。
「アウトレイジ・ビヨンド」を見た。
「希望の国」を見た。
それぞれさまざまな思いを抱いたが、それはここには書かない。何も感じなかったわけではもちろんない。ただ書きたくないから書かないだけだ。

これだけは言える。僕の身体の中の受光体は、以前とはかなり受信角度が違ってきている。もう、僕は少年の頃の感性を持ち得てはいないのだ。 だけど、以前とは違ったフィルターを手に入れて、自分自身を変え続けている。ランニングはそのフィルターの一つなのだ。

今月は25日にフルマラソンを走る。究極にマゾヒスティックな行為。だけど圧倒的なリアルが僕を待っているはず。 42.195キロを走ったとき、きっと僕の中ではまた何かが変わっているだろう。

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2012年10月 6日 (土)

「MAGICAL CHAIN CARAVAN vol.3」MAGICAL CHAIN CLUB BAND(リクオ/ウルフルケイスケ/寺岡信芳/小宮山純平)/2012年10月6日(土) 下北沢 CLUB Que

2012年10月6日(土) 下北沢 CLUB Que
"CLUB Que shimokitazawa 「新夜想曲第十八番・ウタゲアリキ」 No.18 anniversary"
「MAGICAL CHAIN CARAVAN vol.3」
【出演】MAGICAL CHAIN CLUB BAND(リクオ/ウルフルケイスケ/寺岡信芳/小宮山純平)
前¥3500 当¥4000(1ドリンク別オーダー) 開場18:30 開演19:00

うん、このバンドはいいかも!
実を言うと、僕は長い間リクオとウルフルケイスケとの組み合わせが、どうもしっくりしなかったのだ。二人の色が違っていて、特にリクオの良さが薄まっちゃうような気がして…。だけどこの夜のライブで、やっとなぜこの二人がバンドを組んだのかわかったような気がした。二人の気質は違っているようでよく似ているのだ。そして、お互いがお互いの長所を巧くシェアし合っているように思う。かくして、ともすれば鬱々としがちなリクオの楽曲には明るさが加わり、ウルフルケイスケの楽曲もR&R一本やりではなく、様々な陰影が付くようになった。

そのシェアぶりは、バンドという飛び道具を手に入れたおかげで、なおいっそう鮮やかになったと思う。他の二人、寺岡信芳と小宮山純平のリズム隊は、もう何年も一緒にやっているかのように息がぴったりだった。それに触発されたかのように、ケイヤンのギターはリクオと二人だけの時よりずっと手数が多くなっている。寺さんと何年も一緒にやっているリクオのハジケぶりはいわずもがなだ。たとえばCHABOの隣には早川岳晴のべースが欠かせないように、リクオにとってバンドで音を出す際には、今や寺さんの存在はなくてはならないものになっている。
客席から期せずして“完璧すぎるやん!”という声がかかったように、これはもうベテランバンドの領域に入っているぐらいの完成度だった。

それにしてもマジカル・チェイン・クラブ・バンド、楽曲がすごくいいなあ~。この日はリクオとウルフルケイスケそれぞれの定番曲と、10月25日発売のこのバンドの1stアルバムの曲が全曲演奏されたんだけど、この新曲たちがほんとに素晴らしくて強く印象に残った。
リクオが作った「不思議な人よ」なんてのは、ソロではなかなか出来なかったタイプの曲だと思う。この曲をはじめ、そのものずばりの「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」など、このアルバムには3.11後の世界観が色濃く出ているものがいくつかあるが、もし同じテーマをソロでリクオがやったなら、たぶんそれはもう少しシリアスな味の濃いものとなったのではないだろうか。へヴィーな現実をR&Rで吹き飛ばす。そうだよなあ、高校生の頃の鬱々とした時期、僕がR&Rに魅かれたのも、こんなポジティブなタッチにやられたからだったんだよなあ…。ふとそんな気持ちを思い出した。

とにかく、このバンドはこれからの転がり方が楽しみだ。もう、フェスなんかにもこれでガンガン出ればいいのに。陽気なビートで、不思議な人たちを笑い飛ばしてやってくれよ!

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2012年10月 4日 (木)

R.I.P. 島田和夫さん

若かった頃、ミュージシャンや作家といった人たちは、自由人の象徴だと思っていた。
大人になるにつれ、人は誰もが夢と現実に折り合いをつけ、決められた器の大きさに自分の身を合わせるような生き方をせざる得なくなっていく。そんな生き方に少し疲れた時、昔と変わらない笑みを浮かべて飄々と生きている自由人たちの存在は、それだけで僕にとってある種の励ましになっていたのだ。

だから、こういった報せを聞くのは辛い。すごく辛い…。それは、自由の旗のもとに生き続けたセンパイが、最後はこういう結末を選ばざるを得なかったということになってしまうのだから…。

今日はCHABOの「プレゼント」を繰り返し聴いている。
一瞬の流れ星は、あっけない輝きでしかなくても、瞬間の煌めきはずっと心に残る。結局、僕らはその煌めきの一つひとつを大事に繋ぎながら生きていくしかないのかもしれない。
自由ってなんだろう?本当の自由ってのは、僕ら自身が僕ら自身のそれぞれの暮らしの中で見つけていくしかないものなのかもしれないと、今思う。

島田さん、島田さんにとっての自由って何だったのですか?
生き続けて欲しかった。どんなカタチでもよかったら、生きていて欲しかった…。
悲しいよ。

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2012年10月 1日 (月)

近頃おいらはツェッペリン ~その2~

えーと、この前書いたレッド・ツェッペリン話の続きです。

そもそも僕は、なんで2012年の今頃になって、ツェッペリンに熱を上げているのだろう?
それは、このバンドのアルバムを聴いていると“ロックは進化するもの”という、今ではほとんど忘れられている概念を思い出すからだ。
今の若い人たちに言ってもピンと来ないかもしれないけど、80年代初めぐらいまで、ロックってのは最先端の文化を反映したものという意識があった。ファンもミュージシャンも、ロックバンドってのはアルバムを重ねるごとに変わっていくのが当たり前だと思っていたのである。プログレッシブ・ロックなんていう言葉があるけど、僕に言わせれば、70年代以降に出てきた優れたロックバンドは、多かれ少なかれみんな実験的で前衛的だ。だいたい、ブルースやR&Bなどをルーツにして出てきたロックだけど、そこに安住してると保守的だと叩かれたんだから、昔は。新しい試みにトライしているバンドこそ評価が高く、ブルースをただ基本に忠実に演ってるだけでは、ロックバンドとしては物足りないと思われていたのだ。
みんな忘れてるみたいだから言いますけどね(笑)、80年代初めまでは、ローリング・ストーンズなんて無茶苦茶保守的なバンドと言われていて、今よりずっと評価が低かったのだ。

ところが、90年代初めからそういう流れがだんだん変わってきた。一言でいうと“進化”より“深化”が重んじられるようになってきた。表面的な音の変化より、音の完成度が評価されるようになってきたと言い換えてもいいかな。
こうなったのには、いろいろな理由があるんだろうけど、僕が思うに、ロックがあまりにも細分化されて難しくなっちゃったからだと思う。だいたい、新しい試みっていったってだんだんネタが無くなってくる。そのうち、最先端と呼ばれるロックは、インダストリアルとかアンビエントとか、根暗で難解なものになってしまった。いわゆる頭で聴く音楽ですな。最初は僕も三毛に皺を寄せながら、一生懸命こういうのに馴染もうとしたけど、ロック本来の楽しさがあんまり感じられないから、早々に放り投げてしまった。ルーツ帰りした骨太なロックが脚光を浴びるようになったのは、そうしたことへの反動ではないかとワタシは思うのですよ。

加えて、CDの普及に伴う旧譜のデジタル化ラッシュ。これは名盤と呼ばれるアルバムにもう一度光を当てる機会になったのではないか。タイミングよく(?)ロックファン自体が高齢化してきて、僕みたいにいい加減新しいバンドを追いかけるのも疲れたから、昔のやつを良い音で聴いてりゃいいやと思うロックファンが増えたのも大きいだろうな、きっと。

ま、今もだいたいロックシーンはこういう空気でしょ。それはそれでいいんです。
でも、実は昨年あるバンドを聴いて、昔の“ロック進化論”が、僕から完全には抜け切っていないことに気付かされてしまったのだ。
そのバンドはですね、今さらって言われちゃうかもしれませんが、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(笑)。ほんとはとっくに気が付いてなきゃいけなかったんですが、彼らがブレイクした頃はちょうど新しいバンドを追いかけなくなった時代だったからなあ…。
レッチリを聴き出したのは、実は震災が大きく影響している。あの震災のショックで、僕はちょっと音楽不感症になりかかってしまった。精神的な動揺が大きすぎ、何を聴いてものめりこめない。でも、音は欲しかった。それも中途半端なビートではなく、身も心も焦がしてしまうような強烈にリアルな世界観で僕を叩きのめしてしまうような音が欲しかった。結果辿り着いたのが、レッチリとU2だったんだな、これが。

当たり前だけど、U2とレッチリは全然やってる音楽が違う。でも、僕はこの2バンドに共通すものを感じた。それは、このバンドにしかない圧倒的にオリジナルな音世界を持っているということと、アルバムごとに常に変わろうとする姿勢だ。こういうニオイが感じられるロックバンドは、今本当に少ない。
レッチリのアルバムなんて、一曲一曲、これでもかと言うぐらいにアイディアが詰まっていて驚いてしまう。テクも凄いのに、本人たちはずっと馬鹿キャラのまま(笑)。この開き直りには凄みすら感じてしまう。

えーと、なかなかツェッペリンの話が出てきませんが(苦笑)、僕はレッド・ホット・チリ・ペッパーズの一連のアルバムを聴いていて、無性にレッド・ツェッペリンが聴きたくなってしまったのだ。彼らはツェッペリンに影響を受けていることを公言しているから、単純に似てるってこともあるんだけど、それ以上に共通している感覚がある。それは“ある種の強引さ”だ。どんな音楽ジャンルであろうとレッチリ流のファンクに仕立てる強引さ、どんな音楽ジャンルであろうとツェッペリン流ハードロックに仕立てる強引さ。これです。

たとえばですね、レッド・ツェッペリンの楽曲で「デジャ・メイク・ハー」というのがある。これ、レゲエの影響大な曲なんだけど、普通のバンドはこういうアプローチはしないと思うんだ。もう少し向こうの領域に足を踏み入れて演奏するのが普通ではないか。でも、彼らはそんなことは全く考えてない。そういうやり方は彼らの考えるロックではないからだ。レゲエを演奏するのではなく、レゲエをちょろまかす(笑)。向こうの服を借りてなりきったふりをするのではなく、向こうの食べ物をたらふく食べて、強引に自分の嗜好を変えていくのだ。
結果、ボンゾのドラムはいつも以上にデカく響き渡り、ジミーのとぼけた音色のギターが不思議なタイミングで絡む一品が出来上がった。こういうヘンタイ度が高いロックが、僕はたまらなく好きだ。

あんまり強引だから、時として破綻ギリギリのものもあるけど、そもそもロックってこういう強引で不完全なものだったんじゃないだろうか。
音の古い・新しいはあるかもしれないが、こういう姿勢は時代と全く関係なく色あせない。レッド・ツェッペリンの無邪気なまでの強引さは、ある種のミュージシャンシップの極みではないだろうか?こういうバンドは、今はもちろん、70年代まで遡っても本当に少ないと僕は思うのだ。

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