【本】1Q84 / 村上春樹(著)
僕はこの小説を今年の春から4回読み直した。
「1Q84」が村上春樹の数ある作品群の中でNo.1であるとは決して思わない。二つのストーリーが並行して進み、やがて一つの大きな像を結んでいく構成は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で既に試みられている手法だし、リトル・ピープルのような得体の知れない奇怪な存在も、村上作品ではしばしば象徴的に登場してくるものなので、ファンにはお馴染みだろう。ストーリーだって、「ねじまき鳥クロニクル」の幾重にも糸を織り込んだような重層的な展開と比べると、いくぶんシンプル過ぎるようにも思える。
にもかかわらず、2009年の春から秋にかけて、「1Q84」は他のどんな文学作品よりも激しく、僕の魂を揺さぶり続けた。
5月に出版されて以来、「1Q84」は史上空前のベストセラーになったというが、これは決して出版社の仕掛けが成功したという理由だけではないと思う。この小説が、今の時代に書かれるべくして書かれたものだったからこそ起きた現象なのではないか。
「1Q84」にこめられたストーリーに没入していくと、今の時代を生きる誰もが心の底に秘めている漠然とした不安に気付くだろう。そして、この混沌とした時代に自分自身を平静に保っていくにはどうしたら良いのか、誰もがその答えを捜し求めると思う。
振り返れば、時代のピークは1995年だった。あの年に起きた二つの事件、阪神大震災と地下鉄サリン事件は日本人の価値観を大きく変えてしまったと思う。あの時、僕らは市井に生きる普通の人々が、突然人生を大きく変えられてしまう瞬間をまざまざと見せ付けられた。平凡な日常を一瞬のうちに消し去ってしまう邪悪な力が、この世の中には確かにあるということを知ってしまったのだ。
その予兆は2001年の「9.11」で更に決定的になり、並行して起きたバブル景気の終焉や政治の形骸化が、時代の陰りをさらに加速させた。
予想もしなかった大地震が、大都市を一瞬のうちに崩壊させた。
カルト教団が地下鉄で毒ガスを撒き散らし、罪のない多くの人々の命を奪った。
アメリカの富の象徴だったエンパイア・ステートビルが、テロ組織の攻撃で倒壊した。
2009年9月現在、完全失業者数363万人。年間自殺者数3万人。
政治はほとんど有効な手段を持たず、定額給付金なんていう政策とも言えないような茶番しかできない。
総理大臣はまるで子どもが遊びを切り上げて家に帰るように、早々に職を放り出す。
20年前だったらこんなことが考えられただろうか?まるでSFだぜ…。
さらに言えば、忌野清志郎はもうここにはおらず、時代の寵児だった山本耀司が破産し、スマートに飄々と音楽界を歩いていた加藤和彦が自殺する国。それが今僕たちの生きている2009年の日本なのだ。
僕らは今、巨大なカオスの渦中に投げ込まれている。実はそのことに、誰もがうすうす気が付いているのではないか。寄り掛かれるものがない不安を、声の大きな人間に付くことで解消しようとし、得体の知れない外圧からの恐怖は、中国や韓国に対する子供じみた嫌悪に変わる。ネットでの邪悪な書き込みや、意味のない中傷合戦は、イコール日常を生きる実感の無さの表れだ。僕らはみな、出口のない世界の真ん中で、発狂しそうになる自分と必死に闘っているのだ。
この世界はどこかでボタンを掛け違えてしまった。本来あるべきではなかった未来に、今自分が立っている。そんな感触を抱きながら日々を送っている人は、今の時代、僕も含めて実はとても多いのではないかと思う。だから、僕にとっては「1Q84」で描かれたの2つの月が浮かぶ世界は、架空のものとはとても思えなかったのだ。
この小説が寓話的すぎるという批評を書いた評論家がいたが、僕はその評論家の時代を感じる感性を疑う。天吾はすなわち僕であり、青豆は僕が本来ともに人生を重ねていけるはずだった誰かなのだ。僕はそういう読み方をした。いや、そういう読み方しかできなかった。ここにあるものは、疑う余地も無く僕にとってのリアルなストーリーであり、現代に生きる我々一人ひとりの物語でもあるのだと思う。
はじめに僕は、この小説が“シンプルすぎる”と書いた。だが、同時にこの小説には、シンプルであるが故の力強さがある。これは、新しい形のリアリズム文学と言ってもいいかもしれない。
カルト宗教。9.11。学生運動。ニューエイジ。原理主義。グローバリズム。戦後処理。家族…。「1Q84」にはこんなにも多岐にわたるテーマが内包されているのだ。そして、それらは信じがたいことに感動的な男女の純愛を通して紡がれている。
村上春樹は、校了後の数少ないインタビューの中で、“日本人は阪神大震災とオウム事件で、「自分はなぜここにいるんだろう?」という現実からの乖離感を、世界よりひとあし早く体験した気がする。”というようなことを言っていた。だからこそ、現実に負けないリアルさを持って起ち上がってくる小説を書かなければならないと決意したのではないだろうか。
9.11のように、現実が小説を超えてしまうようなことが現実に起きてしまうこの時代に、独りの作家が“リアリズム”の地平に真っ向から立ち向かった。それがこの「1Q84」なのである。
いいかい?「1Q84」は、決して流行りのベストセラーなんかじゃないんだぜ。
現実に抗い、混沌の中で小船を漕いでいるすべての冒険者たちに向けられたメッセージなんだ。
« ぼくの好きなキヨシロー / 泉谷しげる・加奈崎芳太郎 | トップページ | young forever »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 「線量計と奥の細道」ドリアン助川 著(2018.11.04)
- 音楽配信はどこへ向かう? アップル、ソニー、グーグルの先へ…ユーザーオリエンテッドな音楽配信ビジネスとは?/小野島 大(著)(2013.07.08)
- キャパの十字架/沢木 耕太郎 (著)(2013.06.11)
- 『ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ』/円堂都司昭 (著)(2013.06.06)
- 【本】社会を変えるには (講談社現代新書)/小熊英二(2012.12.03)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
恥ずかしながら、本書は依然未読なのですが、
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は読んでますので、
うっすらですが、仰られている感じは理解できます。
確かに1995年、この瞬間に日本のあり方は大きく変わってしまいましたね。
それまでの時代になかった新たなシリアス、
そんなものが生まれて来てしまったきっかけの年であったように思いました。
先程ヒートウェイヴの山口さんのブログ(インタビュー記事)を、
見ていたら、アルバム「1995」が取りあげられていて、
「1995年は俺たちの世代にとって、まさに『1Q84』だった。」と、
語られていたのを見て、その後ここにお邪魔したら、
本書のことが触れられていたので、不思議なつながりだな、
なんてことを感じました。
ライヴ行かれないんですね。
自分は今回はいけませんけど、ヒートウェイヴや山口さんのライヴには、
ちょくちょく足を運んでいるので、
いつかお会いできるかもしれませんね。
投稿: きあ | 2009年11月 4日 (水) 10:30
◆きあさん
えっ!山口洋、そんなことを言ってたんですか!インタビュー、読んでみたいと思います。情報ありがとうございました。
今回のライヴに行けないのは残念でなりませんが、家族に関わる大事な用事ですので、これはしょうがないです。
僕はヒートウェイヴや山口洋のライヴに行くようになってまだ間もないんですが、力強く熱い歌からはいつも力をもらっているように思います。歳が近いこともあるし、なんか人生を伴走してる感じがしてるんですよね。一生付き合って生きたいミュージシャンです。
彼は今、マラソンに夢中みたいですが、触発されて僕も走ったりしてます(笑)。
投稿: Y.HAGA | 2009年11月 4日 (水) 18:34