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2010年12月22日 (水)

【映画】ノルウェイの森

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原作があるものを二次作品化したものに接する時、どうしたってオリジナルとの比較をしないわけにはいかなくなる。僕も原作となった小説には強い思い入れがあるだけに、この映画に関してはなんとなく小説との刷り合わせをするような見方になってしまったことは否めない。
キャストについては、ワタナベ役の松山ケンイチ、緑役の水原希子はハマリ役。だけど、直子役の菊地凛子はどうなんだろう?僕の感覚としてはちょっとエキセントリックすぎるように思うのだが…。60年代当時の町並みやキャンパスの様子、それに音楽はGOOD。音楽はジョニー・グリーンウッドの書き下ろしのスコアに加え、CANの楽曲が意外に合っていてびっくりした。
まあ、細かい不満はあるものの、全体としては小説の静謐な世界観がよく出ているといって良いと思う。

ただ、上映時間という制約があったにせよ、小説の重要な部分が幾つか端折られているのが、どうしても気になった。
一番残念だったのは、最後の最後、直子を失ったワタナベとレイコが一夜を共に過ごす場面が、非常に薄っぺらく描かれていた点だ。小説では、ワタナベの部屋でレイコはビートルズの歌を次々に弾き語り、最後に深く身体を交えることになる。この場面は、生前の直子に深く関わった二人が、二人だけのやり方で直子を送る重要な場面だ。直子を失った哀しみをビートルズの「音楽葬」で弔ううち、二人の間に哀しみの共感が生まれていき、身体を重ねることで必死に喪失感と抗ってゆく…。それは単なる一夜の情交ではない。この世界がどんなに哀しみに満ちていようと、必死に「生」へ向かおうとする行為なのだ。

この場面はある意味「ノルウェイの森」のキモだと思う。描写されるのはビートルズの弾き語りと性交だけでも、そこには多くの物事が語られていた。かつてキズキを失った悲しみを直子と共有したワタナベは、今度はレイコさんと直子の死を共有することになってしまった。そんなワタナベの底知れぬ悲しみをわかっているからこそ、レイコさんはこの夜、身体を開いたのだ。本当は自分だって外の世界に出ることが怖くて怖くてしょうがないのに…。そのレイコさんの優しさと切なさに、僕は何度読んでも胸が締め付けられてしまうのだ。
それが映画では、弾き語りの部分はいっさい無し。レイコさんは唐突にワタナベに「抱いてくれない?」と切り出す。なんだか、とても安っぽいシーンになっちゃっていたのがとても残念だ。たぶん、版権の関係でビートルズの曲を使うことが出来なかったんだろうが、それでも何らかの形で音楽葬を盛り込んで欲しかったなあ…。

ただ、久々に迷い込んだ「ノルウェイの森」の世界はやっぱり強烈だった。死と生の激しいコントラストは、学生時代に原作を読んだ時から20年の歳月を経てなお、僕の心に強い揺さぶりをかけてきた。そう、まるで大人になったワタナベが、飛行機の中で流れ出した「ノルウェイの森」に激しく動揺してしまったように…。
映画が終わり、館内が明るくなっても、僕はしばらく席を立てなかった。そして自分の感じた強い揺さぶりが何だったのかをずっと考え続けることになった。なんだか、それは10代の終わりに小説を読んで感じた時の衝撃とは異なるもののような気がしたからである。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」

映画には出てこなかったけど、これは小説の中を一貫して流れる概念だ。20年前の僕はその意味を頭でしか理解できなかった。しかし、今の僕はあの頃より歳を重ね、身近な人や大切な人の「死」を、よりリアルに感じることが出来るようになってしまった。はっきり言うと、20年ぶりに足を踏み入れた「ノルウェイの森」の中で、自分の中の“老い”と“汚れ”を意識せずにはいられなかった。

小説の中で、ワタナベはこんなことを言う。

「僕は、君やキズキやレイコさんが捻じ曲がっているとはどうしても思えないんだ。捻じ曲がっていると僕が感じている連中はみんな元気に外を歩き回っている…」

直子やレイコは決して精神を病んでいるわけではないのだ。ただ、生き馬の目を抜くような現代社会を生きるために必要な“ある種の技術”が欠如しているだけ。その技術とは、永沢の持っているような世渡りの巧さであったり、自分を勝者たらしめるメンタリティということになるのだが、かつての僕らはそれらを汚れたもの、持ってはいけないものとして捉えていたのではなかったのか…。
気が付いたら、僕はそんな汚れた世界で生きていた。かつて僕の中にあった、硝子玉のような何かは、確実に損なわれてしまっていた…。
「ノルウェイの森」という作品は、直子やレイコの住む静寂な世界と、長沢や緑の住む喧騒に満ちた世界との間を行ったり来たりしながら、この汚れた世界に生きる者に、そんな哀しい現実を突きつけてくるのだ。

2010年12月。この世に生を受けて45年。
僕はいったい、今、何処にいるのだろう?

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コメント

HAGAさんは、観たんですね。
僕は前売り鑑賞券を購入したものの観に行っていません。

やはり怖いんですよね。裏切られるという先入観がありすぎて…。
あれだけバイブルのようにかじりついた原作があるだけに…。

HAGAさんが賞賛されている部分があったのも以外でした。
ボコボコに批判されるのかな?…なんて勝手に判断してしまいました。

でも、僕も知らない時代背景であり、小説の中でいろんな感性を巡らせていたのだから、今の時代のなかで読む「ノルウェイの森」も、映画「ノルウェイの森」も異なる感覚が生じるのは当然なのかもしれません。

だからこそ、いつまでも読みかえせる作品なのかもしれません。
原作者がスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を読みかえせるように…。

僕個人とすれば、映画にするのなら、「ノルウェイの森」の次に出した
「国境の南、太陽の西」の方がいい作品になるような気がしてるんですが…なんて、これも勝手な先入観ですけど。

ともかく、いずれ僕も足を運んでみようと思います。

ドキュメント映画のチョイスもいい感じで、HAGAさんセンスいいですね!

◆樹木さん
僕も観る前に一種の怖さは感じました。でも、観てみて思ったんですよ、所詮「小説」は「小説」だし「映画」は「映画」なんだと…。アウトプットの手法が違う表現形態なんだから、ある程度の違和感を感じるのはしょうがないところもあります。

特に、性的描写の部分は映画だととても安っぽくなってしまうんですよね。村上春樹の世界でのセックスってのは、単なる男女の交わりではなくて、個と個がより深く結び合う、共感レベルを一段高く引き上げる手段だったりするわけじゃないですか。そういうところが映像だとなかなか表現し切れていないのは、観ていてとてもじれったかったです。

僕は映画化するなら「ダンス・ダンス・ダンス」が良いと思うなあ…。あ、でもそれだと単なるアクション映画になっちゃったりして(苦笑)。小説の映画化って、なかなか難しいですよね。

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