« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月

2011年4月29日 (金)

リクオ「セツナグルーヴ2011」 / 2011年4月29日(金) 渋谷 BYG

僕にとって、この夜は3.11以来はじめてのライブだった。
3.11からこっち、多くの人が気持ちの沈む日々を過ごしたと思う。僕も例外ではなかった。自分の目にするものの多くがカタチを変えてしまったような気がして、なかなかライブに行く気持ちになれなかったのである。もちろん、音楽は日々の生活になくてはならないものだという思いは変わらなかったし、その気持ちは大災害の後でもいささかも揺らいではいない。しかし、ライブの場に足を運ぶという行為には、どうしても気持ちを持っていけず、結果的にチケットを持っていながらトバしてしまったライブも何本かあった。仕方ないと思う。こんな気持ちで会場に行ったところで、どうせ音楽を心から楽しむことはできなかっただろうから…。
ただ、こんな精神状態は自分らしくないと言うことに気が付いてはいた。日常に戻らなくては…。僕はまずは形から入ろうと思った。努めて冷静さを装い、不安な気持ちは淡々とランニングすることでかき消した。家族と一緒にいる時間を増やし、子供たちと他愛のないことを話して笑い合った。今はそんな時間が何よりも大事に思えたのだ。そうして迎えたのが4月29日だった。

リクオのライブは今年の1月にも見ているんだけど、なんだかとても久しぶりな感じがした。穴蔵のようなBYGの雰囲気も、そこに集まる音楽仲間に会うのも久しぶりだ。でも、お店も仲間たちも3ヶ月前と何も変わっていなかったようにそこにいた。なんだか、それだけですごく安心しちゃったんだよなあ…。普段は当たり前に思っていることが、実は如何に大事で幸せなことか…。改めてそんなことを思った。

定刻になり、BYGの狭い空間にリクオが現れる。穏やかな笑みを浮かべて登場し、背筋を伸ばしてピアノの前にすっと座るリクオ。表面上は何も変わっていない。ただ、僕は知っていた。リクオも3.11以降ずっと揺れ続けているということを…。
震災直後、多くのミュージシャンが今音楽をやるということにためらいを感じたという。音楽よりも大事なことがあるのではないか?という疑念と、巷の自粛ムード。この春は多くのライブが中止・延期になった。リクオ自身も自分の中からコトバや音楽が消えそうになったこともあったとブログで正直に告白している。でも、やっぱり最後は音楽の力を信じることにしたというのだ。それは、ライブでのお客さんの反応を通し、音楽は娯楽であると同時に、娯楽を超えた意味や力を持っているということを確信したから…。
この日のライブを見ていて僕も強く思った。リクオの徹底したエンターティナーぶりは、音楽に対する確信から生まれているものなのだと。悲しみ、後悔、後ろめたさ、そんなものも抱えながらもあくまでも前向きに転がっていく。ある種のセツナさやはち切れそうな想いを抱えながら、この男は2011年4月末の渋谷の片隅でピアノを叩いている。やせっぽちの彼の背中を見ながら、僕はそんなことを考えていた。

ライブは、最近の定番に新曲をいくつか挟み込むような構成だったのだが、こっちの気の持ちようかもしれないけどでも、やっぱり今聞くと、これまでの曲でも3.11以前とは言葉の意味が違って聞こえてきてしまう。新曲の中には3.11以降に書かれたと思われるものもあったし、「美しい暮らし」がこの日セレクトされていたのも、3.11があってのことではなかったか。
ただ、リクオの歌に哀しみや切なさはあっても、決して暗い影はなかったことを強調しておきたい。それは3.11以前、いやもっと昔、それこそ僕が彼のライブをはじめて見た15年前とも少しも変わっていないフィーリングでもある。そのことは僕をすごく安心させてくれたのだ。

この日は、ギターでサポートに入る予定だった安宅浩司が急病のために来られず、急遽チェロの橋本歩ちゃんが参加することになったのだが、これが結果的に“セツナグルーヴ”スタイルでやる時のいつもの気心知れた仲間達になったということも、ライブがより前向きなものになったのだと思う。
リクオ+寺岡信芳+朝倉真司+橋本歩(ここに坂田学と阿部美緒がいればもっと良かったんだけど…(笑))。3.11以前と以降では、目に映る多くの物事が形を変えてしまったけど、リクオの佇まいも歌声も、寺さんと朝ちゃんが生み出すビートも、何も変わらず温かかった。歩ちゃんのチェロの音色も、まるで張り詰めた神経の糸を一本一本ゆっくりと緩めていくようなタッチを感じた。

2部からはこの日のゲスト、ウルフルケイスケが登場。予想以上に(と言っては失礼だけど…)、リクオとの相性は抜群だった。ケイスケはひたすら明るいロックンロールで攻めまくり、手にしたテレキャスターから弾き出されるブライトな音色と明るく軽快なフレーズは、リクオのローリング・ピアノと最高のコンビネーションを発揮していた。ケイスケの明るいキャラクターに触発されてか、リクオも本来のロックンローラーぶりが思いっきり表に出せるような感じだった。いやあ~こんなに良かったのか、ウルフルケイスケ!(笑)この2人はライブを重ねるにつれてもっとハジケそうだなあ(笑)僕も、今度はジョイントライブに是非足を運びたいと思った。

あれから1ヶ月。ライブの場に帰ってきた最初がリクオのそれで本当に良かったと、今しみじみ思う。
震災直後の3月16日にブログに書いていたことを、彼はこの日、「パラダイス」の曲中で直接語っていた。

しばらくテレビのニュースを消して、パソコンも閉じて、心を鎮めてみる。
自分の弱さ、脆さを嘆くのはやめる。認めてやる。
そらしゃあない。
自分にとって大切なものは何?
つないだ手のぬくもりを思い出す。
忘れかけていたメロディーを口ずさむ。
少し無理をしてバカなことを言ってみる。
結構受けた。
笑顔にほっとした。
自分の中にあった優しさを思い出す。
希望を思い出す。
勇気を思い出す。

新しい暮らしが始まる。
新しい生き方を探す。
一人ではなく。
哀しみを忘れない。
後悔を忘れない。
後ろめたさも忘れない。
でも、引きずらない。
力み過ぎない。
祈り続ける。
歌い続ける。
新しい言葉とメロディーが生まれる。
呼吸を整えて、元気を出す。

震災以降、ネットで様々な人の書いた文章を目にしたが、僕はその中でもリクオの綴ったこの文章が最も強く心に残っている。
新しい時代が始まった。僕も新しい生き方を探していこうと思う。大切な人と、力み過ぎずに…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月26日 (火)

日常へ帰ること。非日常に抵抗すること

気が付けば、もう4月も後半。
3月11日以降、この国の風景はがらっと変わってしまったけれど、それでもいつものように桜は咲き、ツバメが舞う季節はやってきた。何気ない季節の風物詩でも、今年はそんな当たり前の日々がなんだかとてもいとおしく感じられて仕方がない。

僕らの国は、この災害でたくさんのものを失った。多くのかけがえのない命が奪われ、東北地方の生産力の低下はこの国全体の経済に暗い影を投げかけている。
そして、あの原発事故…。白状すると、僕は今でも朝起きるとこれが全部夢だったなんてことになってないかと願ってしまう。だって、この国の未来がこんな惨憺たるものになるなんて、子どもの頃は誰も思わなかったじゃないか。あの頃、僕らの夢見た未来は、美しい高層ビル群の間に高速道路が引かれていて、その上をカッコいい電気自動車がすいすい走っているような、何もかもがキラキラしている美しい風景だった。原子力は人間の手で完璧に制御され、限りなく安全でとてつもないパワーを人類にもたらしてくれているはずだった。鉄腕アトムのエネルギーが原子力で、アトムの妹が“ウランちゃん”という名前だったことに、当時の僕らは何の違和感も抱いていなかった。
僕の地元で起きた原発事故は、そんな僕らの夢が単なる幻想でしかなかったことを嫌というほど知らしめた。

でも、今僕は思う。この1ヶ月は確かに最悪だったけれど、決して失ったものばかりではなかったと…。

家族や家を失い、住んでいた町の面影さえ残っていないような大地を前にしてもなお、「オレはここに残る。この町が元通りになるように力を尽くす」と言う若者がいる。命の次に大事な舟を奪われてもなお、「いつの日か必ず漁に戻る」と決意する若者がいる。それは、巷で言われる“草食形”なんていうイメージからは全くかけ離れた、たくましい若者の姿だった。

計画停電で真っ暗な町をバスに揺られるのは怖かった。灯りが無いと東京という大都市ですらこんなにも暗くなることを僕は思い知った。でも、信号さえ消えた漆黒の町を事故もなく車が通れたのは、お互いがお互いを気遣い、譲り譲られていたからに違いない。生き馬の目を抜くようなこの都会でも、思いやりという温もりはまだ残っていたのだ。

3月の末から4月の始めにかけては、被災地での卒業式や入学式の様子がしばしば報道された。白状するけど、テレビでそんな場面を見るたび、僕は涙していた。
級友を津波で失った子どもがいる。両親を失った子どもがいる。それでも子ども達は悲しみを堪えて懸命に答辞を述べていた。先生たちも心を尽くしていた。津波で汚れた卒業証書を、先生方が徹夜で綺麗に磨き上げたという話には胸を震わされた。
そして、節目で歌われる歌の数々…。とくに、何度も歌われていた「ふるさと」には、もう…。この歌が、こんなに美しく優しい歌だったとは…。

必要のない買占めだの、被災地での盗難だの、嫌な話もあったけど、この一ヶ月は普段僕らが忘れていた様々な人間らしさを再確認することにもなったんじゃないだろうか?悪夢を潜り抜けた今、この国に生きる人たちの大多数は、何とかして被災地の力になりたいという気持ちを大なり小なり持っているんじゃないかと思う。そんなバイブレーションは、この国がまだまだ捨てたもんじゃないと僕に強く思わせてくれるのだ。
芸能人が被災地に行って炊き出しを行うのだって、売名行為と言う人もいるだろうけど、避難所の人は間違いなく嬉しいと思う。テレビに出ているタレントさんから、「頑張って!」と言う言葉とともに炊き出しのおにぎりを渡されたなら、その人にとっては間違いなく力になるでしょう?その行い自体が悪かろうはずがない。ぼくはそう思う。

こんなときだからこそ気付かされるものがある。人間ってやっぱり素晴らしい!僕らの人生にどんなに酷い未来が待っていようと、見えない明日が逃れられない不幸に覆われてしまおうと、それでも僕らは人を信じ、この世に生を受けた幸せを噛み締めながら生きていくしかないと思う。

このところ、U2の87年のアルバム「ヨシュア・トゥリー」をずっと聴き続けている。若かった頃、僕はこのバンドの直球ぶりを重たく感じることもあった。でも、今、このアルバムに収められた曲のなんと崇高に響くことか…。ボノの書く詞、バンドの奏でるサウンドには一点の曇りもない。彼らの楽曲は、どんなに過酷な状況にあろうと、光を目指して歩み続ける人間の素晴らしさを描いているように、僕には思える。



今週末、震災後初のライブに足を運ぶ。大好きなローリング・ピアノマン、リクオのライブだ。
正直言うと、11日以降はなんだか音楽を聴く気にもなれず、チケットを持っていたいくつかのライブを飛ばしてしまった。そんな日々はそろそろ終わりにしよう。僕は僕の日常に静かに戻ろう。
今、僕はこんなことを思う。災害の被害を直接受けなかった僕らができる最善のこと、それはまず自分自身が普通の生活を続けられるよう努力することなんじゃないだろうか?淡々と日常を過ごし、大切な人と大切な自分自身のために普通の暮らしを続ける。非日常に対する一番の抵抗は、ありふれた日常そのものなのではないかと思う。そして、ふとした時に被災地にいる人々のことを思い続ける。これからも、僕はそんな暮らしをしていきたい。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2011年4月15日 (金)

戦後の終わり

いったい僕らは何処で道を間違えてしまったのだろう?
3.11以降、荒れ狂う原発の映像を目にするたびに、僕はそんなことを考える。

今確かに言えるのは、地震や津波は自然災害だが、原発事故は明らかにヒューマンエラーだということ。でも、僕は東電の社長を攻める気にも、後手後手の政府の対応を批判する気にもなれないのだ。この事故に、直接の戦犯の顔はない。この事故は、日本という国の膠着した“システム”そのものがひき起こしたような気がしてならないのだ。

戦後の焼け野原から、日本は欧米に追いつけ追い越せをスローガンに復興の道をひた走った。国策で進められた電力会社のおかげで、企業は潤沢で安価な電力の供給を受け、結果として日本に世界に例を見ないほどの高度経済成長をもたらした。
僕が生まれた昭和40年代は、その絶頂期でもあった。あの頃は、子どもの目から見ても日本が年々豊かになっていくのがわかったぐらいだ。僕らが青春を過ごした80年代、それは頂点を迎えたが、その影でこの生活水準を維持するため、この国はますます電力を必要としていったのだろう。資源のない日本が原発に飛び付いたのは必然だったのかもしれない。そして気が付いたら、この国は狭い国土に56基もの原発を抱えていた。
あの頃、わずか30年後にこんな暗澹たる未来が待っているとは誰も思わなかった。いや、その危険性に気付いていた人もいたのだろうけど、爛熟した目に見えない“システム”、たとえば政財界の癒着やら、既得権益を守る官僚組織やら、大企業がスポンサーになることでまともな報道ができなくなった大手マスコミやらに、その声はかき消されてしまったのだと思う。
それでも僕は政治家や電力会社を批判することはできない。だって、その政治家を選び、原発近くに住む住民の危険リスクを知りつつ、原発からま生れる電気をダラダラと使い続けて贅沢な暮らしを享受したのは、他ならぬ僕自身なのだから。

今は、とにかくあの暴走する原発を何としても沈めなければならない。
そして、もし、もしまだこの国に未来への希望が残っているとするならば、僕らは今度こそ“システム”を解体してゆかなければならないのではないか。
計画停電?全然OKだよ。節電?そんな回りくどい事を言わず、いっそのこと企業用・家庭用で供給できるアンペア数を最初から決めてしまい、物理的に電気を使えなくしてしまえばいい。その結果待っているのは、今よりも数段不便で貧しい、まるで昭和40年代初めのような暮らしぶりかもしれない。それでもいいではないか。むしろ、そのぐらいの覚悟がないと、この国は本当にダメになってしまうと思う。

希望はあると思う。
被災地から届けられる映像を見ていると、跡形もないほど破壊しつくされた町なのに、そこから逃げずに復興に力を残そうと決意している若者たちの姿をしばしば目にするが、それは同じような田舎町で生を受け、“都会的な暮らし”とやらに憧れて町を飛び出していった30年前の自分の世代より、遥かに地に足の付いた逞しさを感じずにはいられない。僕は彼らにこの国の未来を託したい。
もしかしたら、来るべき未来に一番気持ちの切り替えが必要なのは、爛熟した時代を知っている僕ら世代なのかもしれないな。僕らは着込みすぎた服を一枚一枚脱ぎ捨ててゆく努力をしなければならないのではないか。ハイテク家電に囲まれたハイソな生活や、バブルに浮かれたあの時代がそもそも間違っていたのだから…。日本は今、長い戦後をやっと終えたのかもしれない。

この週末、僕は福島へ帰る。
あの地には年老いた両親が、放射能に怯えながら静かに暮らしている。僕が行ったからどうなるわけでもないけれど、原発という化け物に痛めつけられ、いまや瀕死の状態になっている故郷を、僕はどうしても見捨てることができないのだ。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »