戦後の終わり
いったい僕らは何処で道を間違えてしまったのだろう?
3.11以降、荒れ狂う原発の映像を目にするたびに、僕はそんなことを考える。
今確かに言えるのは、地震や津波は自然災害だが、原発事故は明らかにヒューマンエラーだということ。でも、僕は東電の社長を攻める気にも、後手後手の政府の対応を批判する気にもなれないのだ。この事故に、直接の戦犯の顔はない。この事故は、日本という国の膠着した“システム”そのものがひき起こしたような気がしてならないのだ。
戦後の焼け野原から、日本は欧米に追いつけ追い越せをスローガンに復興の道をひた走った。国策で進められた電力会社のおかげで、企業は潤沢で安価な電力の供給を受け、結果として日本に世界に例を見ないほどの高度経済成長をもたらした。
僕が生まれた昭和40年代は、その絶頂期でもあった。あの頃は、子どもの目から見ても日本が年々豊かになっていくのがわかったぐらいだ。僕らが青春を過ごした80年代、それは頂点を迎えたが、その影でこの生活水準を維持するため、この国はますます電力を必要としていったのだろう。資源のない日本が原発に飛び付いたのは必然だったのかもしれない。そして気が付いたら、この国は狭い国土に56基もの原発を抱えていた。
あの頃、わずか30年後にこんな暗澹たる未来が待っているとは誰も思わなかった。いや、その危険性に気付いていた人もいたのだろうけど、爛熟した目に見えない“システム”、たとえば政財界の癒着やら、既得権益を守る官僚組織やら、大企業がスポンサーになることでまともな報道ができなくなった大手マスコミやらに、その声はかき消されてしまったのだと思う。
それでも僕は政治家や電力会社を批判することはできない。だって、その政治家を選び、原発近くに住む住民の危険リスクを知りつつ、原発からま生れる電気をダラダラと使い続けて贅沢な暮らしを享受したのは、他ならぬ僕自身なのだから。
今は、とにかくあの暴走する原発を何としても沈めなければならない。
そして、もし、もしまだこの国に未来への希望が残っているとするならば、僕らは今度こそ“システム”を解体してゆかなければならないのではないか。
計画停電?全然OKだよ。節電?そんな回りくどい事を言わず、いっそのこと企業用・家庭用で供給できるアンペア数を最初から決めてしまい、物理的に電気を使えなくしてしまえばいい。その結果待っているのは、今よりも数段不便で貧しい、まるで昭和40年代初めのような暮らしぶりかもしれない。それでもいいではないか。むしろ、そのぐらいの覚悟がないと、この国は本当にダメになってしまうと思う。
希望はあると思う。
被災地から届けられる映像を見ていると、跡形もないほど破壊しつくされた町なのに、そこから逃げずに復興に力を残そうと決意している若者たちの姿をしばしば目にするが、それは同じような田舎町で生を受け、“都会的な暮らし”とやらに憧れて町を飛び出していった30年前の自分の世代より、遥かに地に足の付いた逞しさを感じずにはいられない。僕は彼らにこの国の未来を託したい。
もしかしたら、来るべき未来に一番気持ちの切り替えが必要なのは、爛熟した時代を知っている僕ら世代なのかもしれないな。僕らは着込みすぎた服を一枚一枚脱ぎ捨ててゆく努力をしなければならないのではないか。ハイテク家電に囲まれたハイソな生活や、バブルに浮かれたあの時代がそもそも間違っていたのだから…。日本は今、長い戦後をやっと終えたのかもしれない。
この週末、僕は福島へ帰る。
あの地には年老いた両親が、放射能に怯えながら静かに暮らしている。僕が行ったからどうなるわけでもないけれど、原発という化け物に痛めつけられ、いまや瀕死の状態になっている故郷を、僕はどうしても見捨てることができないのだ。
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コメント
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HAGAさんの今のお気持ち…
察することしか出来ない私です。
ヒロシマで生まれた私は
ずっと心のどこかで
「やっぱり原発はイヤだ」と思ってました。
自分の手におえないモノは避けたい…という気持ちです。
でも、この国の技術と誠意も信じていました。慎重な国民性を。
でも、“絶対安全”なんてないんですよね、やっぱり。
もっと謙虚にならなきゃ…と思いました。
週末、帰られるのですね。
抱きしめてあげて
ください。
抱きしめられなかったら…
手を握ってあげて
話を聴いてあげてください。
いっぱい…
泣いてきてくださいね。
投稿: REICO | 2011年4月15日 (金) 19:37
HAGAさん
ともかく安全が一番ですよ。ご家族の方と色々辛い話をしなくてはいけないでしょうけど、でもまずはご無事であるということが何よりだと思います。
自分が学生時代、地震や津波等の地理的な研究をしていたのですが、日本はやはり大きな震災を想定してランドスケープの策定をしなければどうしようもないです。
もうすでにゼネコンが色々復興の為に動いているようですが、新しい日本という言葉の持つ意味を深く考えていって欲しいですね。
投稿: 僧 | 2011年4月16日 (土) 21:44
この記事を読んで…。
浜田省吾の“RIGING SUN-風の勲章”のフレーズが、
断片的に想い、伝わりました。
『過ぎ去った昔の事と
子供達に何ひとつ伝えずに
この国 何を学んできたのだろう』
『焼跡の灰の中から強く高く飛び立った
1945年打ちのめさされ砕けた心のまま
1945年焼跡から飛び立った今』
投稿: 樹木 | 2011年4月16日 (土) 23:49
◆REICOさん
11日、実家のある福島県白河市は震度6強の地震に教われました。東京も震度5でしたが、このクラスだと5と6ではえらい差があるんだなあってのが率直な感想です。うちは部屋中がめちゃくちゃ。大人2人でも運べないような重い食器棚が40センチも横にずれていました(倒れなかったのが不幸中の幸い)。それから、震災直後は流し台が壁からずれ、水道管が外れて床が水浸しになったそうです。そんなことが起きるなんて、普段は想像もつかないじゃないですか。震災って予想もつかない事態が起こるんだと思いました。
ただ、そんなことになっても両親は思ったよりずっと元気に暮らしていました。余震も相変わらずあるのですが、“南相馬の人と比べればこんなのなんてことない…”って淡々と暮らしているのには、こっちが励まされてしまったぐらいです。やっぱり、戦後を経験してきたあの世代はすごい…。改めてそう思いましたし、復興するにはそのぐらい強い気持ちがないとダメなんだなって思いましたね。
投稿: Y.HAGA | 2011年4月18日 (月) 11:13
◆僧さん
>日本はやはり大きな震災を想定してランドスケープの策定をしなければどうしようもないです。
そうですね。現地に行ってわかったんですが、ざっくり「震度6強」と言っても、場所によって被害状況ってかなり違うんですよ。あれだけ強い揺れでも瓦一つ落ちてない家があったりしますし、家の中ひとつとってみても、置いた向きによってはほとんど動かなかった家具なんかがあるんですよね。たぶん、元々の地盤の強い弱いとか地震の波動の伝わり方とか、いろいろな原因があると思うんですが、そういうことって、きちんと調べて対処すれば、万が一のことがあってもだいぶ被害を小さくできるんじゃないかと感じました。
投稿: Y.HAGA | 2011年4月18日 (月) 11:14
◆樹木さん
ご紹介いただいた浜田省吾の歌は知りませんでしたが、なんだか今の僕たちの状況にぴったりだと思いました。
この歌ってけっこう昔の曲なんでしょう?気付いてる人はもうずっと前から気付いてるんですよね。待ったなしの状況になった今、僕らは下の世代に何を残していけるか真剣に考えていかなくてはいけない年代に差し掛かったんだと実感しています。
投稿: Y.HAGA | 2011年4月18日 (月) 11:14
HAGAさんへ
ともかく家族がご無事で何よりです。今回は2次災害以降が酷い状況の様なので、無事ということが取り敢えずはベストなのでしょうね。
(アントニオ猪木じゃないけど元気があれば何でも出来る!)
私が大学時代、科目に「環境地理学」が有ったのですが、内容はずっと地形図の色塗りでした。4万分の1スケールの地形図を等高線上に色分けするという作業です。浮かび上がるのはその土地の持つ多様な特色でした。
今回の復興が時間がかかっているのは多様な立地環境や条件が大きな要因なのでしょうね。
菅首相を含め中央、そして地方行政がかなり大変だとは思いますが、個人個人出来ることをやるしかないんでしょうね。
投稿: 僧 | 2011年4月19日 (火) 00:36
◆僧さん
>今回は2次災害以降が酷い状況の様なので、無事ということが取り敢えずはベストなのでしょうね。
そうですね。僕はこれから雨の多い季節になった時を心配します。11日の地震はもちろん、相次ぐ余震で地盤が緩んでますから、土砂崩れ等の被害が出かねません。特に、山を切り拓いて作った新興住宅地なんかは、土を削ったのか盛り土をしたのかだけでだいぶ状況が違うんですよね。
とにかく、梅雨入りする前に最低限の補強はしなければって思うんですけど。
投稿: Y.HAGA | 2011年4月21日 (木) 10:04