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2011年6月

2011年6月30日 (木)

会話のつづき ロックンローラーへの弔辞 / 川崎徹(著)

2170342_2これは、あれから2年経って、80年代にRCと仕事をしたCMディレクターが、静かに淡々と“あの人”のことと、自らにまつわるいくつかの「死」を語った哀悼集である。

2年前のあの日、誰もが感じたことは、「死」というものへのこれまでにないほどのリアルな実感だったのではないだろうか。僕自身のことを言えば、それまでに肉親の死や友人の死などを経験してはいたが、これほど「死」が自分の近くに迫る感覚を味わったことはなかった。世代の拠り所を喪失することが、肉親や親しかった人との別れの悲しみとはまた違う、これほど大きな痛みを伴うことを、僕はあの日はじめて知ったのだ。

あの日以来、自分の中で何かが変わった。それは、ひと言で言ってしまうと、誰であろうと「死」からは決して逃げられないという達観だ。どんなに健康だろうと、いつか突然僕は癌になるかもしれない。もしかしたら今日の帰り、暴走したトラックにひかれてぺちゃんこになってしまうかもしれない。それは確立の話ではなく、いつ起きてもおかしくないこと。「死」は「生」のコインの裏側のように、淡々とそこにある。僕自身の「生」なんてほんとにちっぽけなものだと思うようになった。
僕がマラソンを始めたり、今度の震災で被災した古里に身を投げ出したいという衝動に駆られるのも、「死」への切迫感を感じたことと無関係ではないと思う。言い方を換えれば、こちら側にいることになった僕は、それだけのことをしないと、もはや「生」の圧倒的なリアリズムを感じることができなくなっているのだ。

この本は、川崎徹がいなくなった“あの人”と、そこから引き出された自分の記憶に残る「死」を通し、こちら側に残された者としての想いを綴った哀悼の書である。
川崎徹といえば、80年代に青春を過ごした世代だったら聞いたことのある名前だと思う。あの頃は、コピーライターだのCM監督だのがやたら持て囃され、大学生の人気就職先といえば広告代理店が上位に来ていた時代。川崎徹はCMディレクターとして飛ぶ鳥を落とす勢いだった。「ハエハエカカカ キンチョール」や、富士フイルムの「それなりに」だのを作ったのもこの人。もっというと、パルコのCMでRCサクセションをミイラにしたのもこの人だし、清志郎の著書「忌野旅日記」で彼が買ったポルシェのローンの保証人になったのもこの人。当時の川崎さんはRCサクセションと“それなりに”(苦笑)関わった仕事をしていた人なのだ。

その川崎さんが、あの日から2年経って突然こんな本を出した。しかも、80年代の派手な活躍が嘘のような地味で目立たぬ文章で。オビで菊地成孔が語っているとおり、これは非常に目立たない、静けさすら感じられるエッセイである。なにしろ、本には“清志郎”という言葉すら1回も出てこないのだから…。

たとえば、あの暑かった長い一日の描写。

「腹減った、のど渇いた、死にそうだぁ」
「バン!」
男が口で言った銃声に、女はのけぞって言った。
「こんな日に死ねて嬉しいぜ、感謝します!!」
列にいた若い男女の会話である。故人に似せた言い回しと、原色で着飾ったふたりの悲しみとは程遠いやりとりの方が、ロックンローラーを送る言葉としてはふさわしく思え、嗚咽混じりの弔辞から目を外し、忘れないうちにと走り書きした。

あの日、青山に行った人ならわかると思う。この短い文章にはワイドショーや雑誌の記事などとは違う、あの一日のリアルな空気が含まれている。

そして、川崎さんの想いは更なる死への記憶となって続いてゆく。毎日、散歩していた近所の公園のホームレスの死。母の死。父の死。そして、老い行く自分自身への想い…。この哀悼の書は、80年代にあれほど軽薄短小なコマーシャルを作り続けていた人の書いたものとは思えないような、ある種の諦観に満ちている。それは、これまでの自分の歩いてきた道を振り返るような年齢となった川崎さんが、自分の作ってきたものに対して後悔の念さえ抱いているように感じられ、時として痛々しい。
バブル期に“クリエイティブ”と呼ばれるような仕事をしてきた人が、21世紀になってから当時のことを苦渋に満ちた表現で記すのをしばしば見る。これはいったい何故なんだろう?彼らとて、当時は“それなりに”(しつこいな…(苦笑))信念を持って広告を作ってきたはずだ。それほど自分を卑下しなくてもいいんじゃないかと、僕なんかは思ってしまうのだけれど…。

ただ、自分の老いを隠さず、その影にふとため息をつき、企業の広告ではなく、自分の表現として小説に辿りついた川崎さんの気持ちが、僕には何となくわかるような気がする。
この地味さこそ、表現者としての川崎さんの誠実さなのだ。そして、静寂に満ちたこの不思議な文章には、2年前のあの日から何かが変わってしまった僕自身の気持ちとも近いものを感じてしまうのである。

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2011年6月22日 (水)

わかりやすい(苦笑)。

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うーん…。いや確かに、わかりやすいけどさ、これ。
オレの生れ育った町は見事にオレンジ色…。
数字を頭で理解はしてましたが、こう色分けされてきっぱり示されると、はっきり言ってメゲますなあ…(苦笑)。畜生、オレの大切な場所をこんな風にしやがって!

来月、オレはこの地図の黄色からオレンジのところをうろうろするわけです。はい(笑)。
でも、ここで今もたくさんの子どもたちが暮らしていることを考えれば、びびってなんかいられない。
僕ら大人に対する放射線の影響は子どもの5分の1。だったら、僕らは子どもたちのために積極的に動いて少しでも放射能を除線する努力をすべきなのではないか。
どうせ、いくらジタバタしたって、オレらなんかせいぜいあと30年生きられればいいほうだろう。だったら、残された時間を次の世代のために有意義に使いたい。

農作物や魚だってそうだ。
3.11以降、この国で完璧にクリーンな食物を手に入れるのは難しくなってしまった。だったら、むしろ大人は開き直って多少の汚染なら思い切って食し、子どもに少しでも安全な食べ物をまわすべきではないかと思う。
福島の農家では、出荷を禁じられた農家でも野菜を作り続けている人がいる。畑の土は使わないと痩せてしまうからだ。今、福島の農業・漁業は瀕死の状況。そんな中、少しでも地元の産物を食することも復興へのアクションなのではないだろうか。
地元の人以外、誰も知らないと思うが、オレは福島に帰ったら“阿武隈の紅葉漬け”を肴に会津の酒を呑むのが楽しみなのだ。これだけは譲れない。放射能なんか屁でもない。

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2011年6月21日 (火)

Chloe red presents”MY LIFE IS MY MESSAGE”Vol.1 出演=HEATWAVE / 2011年6月14日(火) 渋谷・DUO Music Exchange

Chloe red presents"MY LIFE IS MY MESSAGE" Vol.1
6月14日(火) 渋谷・DUO Music Exchange
出演=HEATWAVE
スペシャルゲスト=大島保克
開場18:30 / 開演19:30 チケット料金=前売¥4,000 / 当日¥4,500
税込・ドリンク代別途¥500
※MY LIFE IS MY MESSAGEのOFFICIAL GOODSを会場にて販売します。このOFFICIAL GOODSの売上は、全額が被災地の為に役立てられます。

やっとレポが書けた。このライブで得た感動はとても大きい。それは、もしかするとこれからの僕と音楽との関わり方を変えてしまうほどのものかもしれない…。
このライブを語るのに、3.11大震災を外すことは絶対にできない。3.11から3ヶ月、僕の心はさまざまに揺れた。46年間、常に音楽を傍らにおいて歳を重ねてきた僕のような人間にとって、その生き方を問われるような日々だった。震災当初、僕はこう思ったのだ。こんな時に悠長に音楽なんか聴いていていいのだろうか?大量の電気をタラタラ使うライブに行くぐらいなら、被災地に行って自分の身体を使って瓦礫の一つでも片付けたほうがマシなのではないか?普段、LOVE&PEACEだの何だのほざいてるなら、こんな時こそそれを実践すべきなのでは?考えれば考えるほど素直に音楽を楽しむ気持ちになれなくなってしまった。結局、今年の春は手元にチケットのあったライブを何本かトバしてしまう。
5月に入って、CHABOの力強いステージに勇気付けられたのをきっかけに、またライブに足を運ぶようになったのだけれど、それでも僕はまだ確信を持てずにいた。平穏な暮らしが根底から壊されてしまった時、果たして音楽は一個の握り飯に勝てるのだろうか?

考えてみたら、これは昔から言われ続けてきた音楽の機能性への問いかけでもある。こんな永遠の問いに、山口洋は真っ向勝負で答えを返してきた。ファッションブランドChloeと連帯してOFFICIAL GOODSを作り、その売上げを全て被災地に寄付すると発表。さらに”MY LIFE IS MY MESSAGE”というテーマを掲げ、ブログ閲覧者にそれぞれの暮らしの中での美しい瞬間を捉えた写真の投稿を呼びかけた(後にこれはライブでも使われ、写真集になって入場者全員に配られるとアナウンスされた)。

普段の僕は、こういった呼びかけには簡単にのらない。だって、寄付したいならグッズを買うなんて回りくどいことをせず、使途のはっきりした団体に自分で預けたほうがよっぽど確実じゃないか。何よりも、そんなことをすると自分がそれだけでイイ気分になってしまうのがたまらなく嫌だ。正直に言えよ、お前、本当はアーティストグッズが欲しいだけなんだろ?そう、思ってしまうもう一人の自分がいる。そうだよ、オレは飛び切りのヘソ曲がりなんだよ(苦笑)。

だけど、今回だけは自分も行動を起こすべきだと思った。それは、ヒロシの言ってる事は、震災後に僕が感じたことと基本的に同じだと思ったからだ。こんな時だからこそ心を落ち着けて、大切な人と大切な自分自身のために普通の暮らしを続ける努力をする。そんなありきたりなことが、今だからこそ一番大事なんじゃないかと思った。圧倒的な非日常には、圧倒的な日常が一番の武器になる。そう思うにいたった。僕は、この日のために僕にとっての大切な写真を一枚だけ投稿し、普段のライブとはちょっと違った気持ちで渋谷に向かった。

DUOに向かう渋谷の町並みは、拍子抜けするぐらい普段と変わりなかった。まるで3ヶ月前の怯えぶりが嘘のよう。被災地ではいまだ家を無くした人たちの悲しみが癒されず、原発事故は収束のめどさえ立たずに、東京にも放射性物質が静かに舞っているというのに…。
会場も似たようなものだ。緊張した面持ちの人ももちろんいたが、普段のライブと同じように、開演前の一時をたわいの無い会話で埋める人たちがフロアに群がっている。でも、そんなのはどうでもいいと思った。人には人それぞれの世界がある。明日それがどうなるかなんて誰にもわからないんだから、それぞれがそれぞれのやり方で過ごせばいいじゃないか…。うーん、3.11以降、なんだか僕の考え方も変わったような気がする。達観しがちになったというか…(苦笑)。
会場に椅子が用意してあったのには驚いた。HEATWAVEのライブにそれはえらく不釣合い。僕は最初から椅子なんかに座る気はなかった。フロア後方のセンター、山口洋のマイクの真ん前にヒロシと対峙するように立つ。このライブにはバンドとがっぷり四つで向きあいたかったのだ。

定刻を10分ほど回り、アイルランド民謡が会場に鳴り響くと、満員のフロアから期せずして手拍子が起きた。素晴らしい雰囲気。この日が特別なライブだということを観客もよく知っているのだ。
オープニングは「雨の後、道は輝く」。アレンジがアルバムと全く異なっていたので、しばらく何の曲だかわからなかったのだが、池畑さんのバスドラ一発で完全にぶっ飛ばされてしまった。凄い!圧倒的なパワー!これはもうドラムというより、マーチを奏でる大太鼓だ。福岡のリジェンダリー・ドラマーはヒロシの志を汲み取り、気合十分でこの日に臨んでいたのだろう。
ハイテンションだったのは池畑さんだけではなかった。渡辺圭一も細身魚もいつも以上に気迫が漲っているのがはっきりと伝わってきた。特別なフレーズを奏でているわけではないし、この日のための特別なアレンジが施されていたわけでもない。なのに、ロックンロールというやつは気合一発でこうも変わるものなのか…。
そして、山口洋ときたら…。溢れる感情を抑えようとしているのか、歌い出しは自分を抑えよう、抑えようとしているように見受けられたのだが、それはすぐに熱い想いに押されて吹きこぼれてしまう。なんて人間臭くて熱いボーカルなんだろう。そしてそのギター…。もう、なんちゅうギターなんだ、これ!アコギだというのに、むちゃくちゃパワフルで破壊力抜群。ギターの一音一音が、まるで叫び声のようだった。

とにかく、4人が4人とも圧倒的な存在感。放たれる4つの音は強い確信を持って鳴り響いていた。こう言うと、なんだかとても荒々しい音に聞こえるかもしれないが、確かに粗野ではあるけれど、とても温かくも感じられた。ああ、HEATWAVE、なんてすごいバンドなんだ!
フロアの観客もぐんぐんテンションをあげていく。フロアのあちこちから拳が突き上げられ、イントロが奏でられるたびに怒号のような喚声が巻き起こった。僕の周りは1曲目から異常なぐらいの盛り上がり。隣の女性は曲が終わるごとに叫び続け、後ろの野郎どもは池畑さんに野太い声援を送っている。
もちろん、僕も燃えた。今日は悔いのないように燃え上がろうと決めていたから、最初からサビを歌い、拳を突き出し、ビートに身を委ねた。この3ヶ月の金縛りにあったような閉塞感から、やっと解放されたような気がした。僕は自由だった。この瞬間、鳥のように自由だったのだ!

今、ライブを振り返ってみると、序盤は「PRAYER ON THE HILL」や、大好きな「I HAVE NO TIME」、「STILL BURNING」などロックンロールが立て続けにプレイされたのだが、中盤は「ガールフレンド」や「フールとクール」など、比較的ミディアムな曲も多かったことを思い出す。しかし、それでも僕の高揚した気持ちはいささかも萎えなかった。テンションの高いバンドのプレイは、じっくり聞かせるタイプの曲でも、激しい感情の揺れを熱く表現し続けていたからだと思う。
渡辺圭一のベースは万華鏡のように色を変える。池畑さんのドラムと一緒に、強靭なボトムを作っているかと思いきや、突如として水面に浮上し、まるでサイドギターのようにヒロシのギターと絡んだりする。細身魚のキーボードは、神秘的な音色で発熱するバンドに複雑な陰影を付けてゆく。とにかく、4人の気迫が並みじゃない。圧倒的な気迫で心臓を魂鷲づかみにされた。

なんて言うんだろう、この日のライブ中盤で演奏された「ガールフレンド」や「フールとクール」は、アルバムで聞くそれとは違った情感に支配されていたように感じる。「land of music」に収められたこれらの曲たちは、不思議な諦観に満ちているのだが、この日の演奏は諦観の中に、もっとポジティブな情感を確かに感じた。
後悔。諦め。変わっていったもの。忘れられた何か。それらを全て認めたうえで、今何かが始まる…。そんな感じだ。

「Starlight」もソロの時の切ない感じとは違っていた。「alone together」と名付けられた新曲も、タイトルに反して前向きなメロとビートを持った曲だった。それは、悲しみの中から復興に向けて歩みだそうとしている東北の人たちに対しての力強いエールのようにも聞こえてきた。
山口洋とHEATWAVE、ソロでもバンドでも変わらないっていう人もいるかもしれないけれど、僕はバンドのアプローチの方が好きかもしれない。思うんだけど、ヒロシ独りだとシリアスになりすぎちゃうんだよね、どうしても。孤独をギターにのせて星空に飛ぶ夜もいい。けれど、今日みたいな日にはやっぱりバンド!HEATWAVEは、この特別なライブにあたって、ネガティブな音は一音も出していなかった。放たれる音に一点の曇りもなかった。素晴らしいミュージシャンシップだったと思う。

後半のR&R4連発は頭の中が真っ白になった。“細身魚のアコーディオンが聞きたいか!”というヒロシの問いかけに、怒号で答える観客。サビは観客も大合唱。まるでアイルランドの祝祭のようだった。「ボヘミアンブルー」は、今この状況でこそ必要な歌。僕の周りは皆拳を振り上げて叫ぶ。興奮はそのまま「NO FEAR」に引き継がれ、渡辺圭一の浮遊感のあるベースが、フロア全体を大きく揺らした。ヒロシのグレッチも大爆発。観客のボルテージは最高潮に達した。
本編ラストの「新しい風」は本当に感動的だった。サビでヒロシが“新しい風が「東北」の方から吹いてくる”と唄うと、フロアから大きな大きな歓声があがる。僕はもう、ヒロシがこの曲をラストに持ってきたこと自体でぐっときてしまっていたんで、この瞬間の気持ちをどうしても言葉にすることができない。胸にいろんな熱いものがこみ上げてきて、涙を堪えるのに必死だった。

アンコールもまた素晴らしかった。大島保克を迎えての「満月の夕」では、後方のスクリーンにウェブに投稿された写真が映し出される。これがもう…。きっとこうくるだろうとは思っていた。予想通りの、はっきり言っちゃうとミエミエの演出だった(苦笑)。それでも泣けて泣けて仕方なかったのだ。
それは、家族の集合写真であったり、在りし日の風景であったりと、決して特別な写真ではなかった。でも、そこには、それぞれの場所でそれぞれの人たちが穏やかに暮らしている確かな日常が、しっかりと刻み込まれていたのだ。

2回目のアンコールの前、山口洋はこのライブの趣旨について観客に語った。それは、ロックコンサートのMCという枠を超えた、とても長い話だったのだけれど、この日演奏された曲以上に大事なことがたくさん含まれていたと思う。
印象に残ったのは、ヒロシが帰国後に震災で被害を受けた古い友人に会いに福島に行った件。そこで、友人たちの顔が以前と変ってしまっていたのを見て、ヒロシは愕然としたという。
話していくうちに、ヒロシの声がだんだん震え始めた。そして、何度も目をしばたたかせる。しかし、ヒロシは必死で言葉をふり絞り、熱いメッセージを語り続けた。これは他人事じゃない。自分自身のことなんだ。今語らなくていつ語る。ヒロシはそう思っていたんだと思う。話さずにはいられなかったんだと思う。

「福島県相馬市〇〇町〇〇番地みたいに、ピンポイントでサポートをしていきたい」
「いろんな人が、いろんなところでピンポイントのサポートをして、それを繋げて行ったらきっと大きな輪になるんじゃないか…」

ヒロシはそう言った。
そうだよな…。ぼくもそう思う。なんだかふっと気持ちが楽になった。津波で被害を受けた地も気がかりではあるが、僕は僕の故郷が福島だから、正直言って古里のことで頭が一杯だ。気仙沼で瓦礫を片付けたい気持ちもあるが、時間が空くとどうしても地元の両親や旧友、生まれ育った懐かしい町のことが気になってしまうのだ。
でも、それは当たり前なんだと思った。って言うか、自分にとって一番大切なものを、今第一に考えないでどうするんだって、ヒロシの言葉でやっと気が付いた。

僕は山口洋のこれからの活動を応援する。けれど、それだけじゃなくて、僕は僕としてできることを少しずつでもやり続けなければならないと思った。
少年の頃、大好きだったあるミュージシャンがこんなことを言っていたことを思い出す。“ロックンロールは行動を起こしている人たちのBGMなんだ”。自分を、ロックを小脇に抱えながら大人になったと公言するならば、僕は僕なりの行動で山口洋とこのクソッタレな時代を並走していきたい。

3.11大震災とそれに伴う原発事故で、この国の景色は大きく変わってしまった。そんな世界でロックと共に大人になった僕たちがこれからどう生きていったらいいのか、その道を示す一筋の光が見えたようなライブだった。
ロックンロールって素晴らしい。音楽は本当に生きる糧になるものなんだなってことを確信した夜であった。

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2011年6月20日 (月)

R.I.P ビッグ・マン

http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY201106190144.html

ニュースを見て目を疑ってしまった。
このところは、傍から見てもあまり体調が良くはなさそうで、ライブ映像でも腰掛ける姿が目立っていたから、ちょっと心配だったのだけれども…。

何かの本で読んだことがあるのだが、彼のサックスの構え方はかなり頸に負担のかかるフォームだとのこと。それでも、あのパワフルなブローをプレイするにはあれしかなかったのだろう。
正に、サックスとともに生きた男の生き様だった。

69か…。若すぎる…。
一度でいいから、ボスと並んで「Born To Run」のソロを吹くところが見たかった。

どうぞ安らかに。ボスも気落ちしてるだろうなあ…。

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2011年6月15日 (水)

新しい風

素晴らしい、本当に素晴らしい夜だった!
ローテーションでやったわけでも、アルバムリリースに併せたわけでもない、“今、やらなければいつやるんだ!”という山口洋の強い想いで行われることになったHEATWAVEのライブ。

もう、並みのライブとは最初から気迫が違っていた。
熱かった!
気迫があった。
志をビシビシ感じた。
そして、泣きたくなるぐらい人間臭かった。

ヒートアップするバンドに呼応し、ぐんぐんテンションを上げていった観客一人一人も素晴らしかったと思う。
これほど会場全体の想いが一体化したライブも珍しいのではないだろうか?

今、僕は昨夜の感動をどうしても言葉にすることができない。満員のフロアで強力なビートに身を委ねながら、僕は何度も何度も目頭が熱くなった。
R&Rとは、こんなにも強く、こんなにも優しく、こんなにも希望を歌い上げる音楽だったのか…。
もう一度言うが、本当に、本当に素晴らしいライブだったのだ!ああ、HEATWAVE…。なんてすごいバンドなんだろう…。
やっぱり僕は信じたい。信じよう!これほどの大きな感動を受け取ったら、もう信じないわけには行かない。音楽の持つ強い力を…。

ありがとう、山口洋。
ありがとう、HEATWAVE。

僕も何かを始めることにする。
昨日、渋谷の町にも、僕の心の中にも、新しい風が吹いた。

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2011年6月13日 (月)

第6回 東京うたの日コンサート【出演】リクオ/三宅伸治 / 2011年6月13日(月)渋谷BYG

2011年6月13日(月) 第6回 東京うたの日コンサート
【出演】リクオ/三宅伸治
渋谷 BYG
前¥3000 当¥3500 開場18:30 開演19:30

うーん、いいライブだったとは思う。でも、僕にとっては今ひとつ気持ちがのめり込めない夜でもあった。今日はちょっと、盛り上がる人たちとの温度差を感じてしまったかな…。微妙な気持ちに揺れた夜だった。

BYGのライブは間に短い休憩をはさんで2部構成で行われる場合が多い。この夜もそうで、1部はオープニングをリクオと伸ちゃんが一緒に演奏し、その後2人がソロを数曲やってから、2部で共演するという流れだった。
僕が違和感を感じ始めたのは、1部での伸ちゃんのソロコーナーからだ。ここで伸ちゃんは「カバーズ」バージョンの「ラヴ・ミー・テンダー」を唄った。伸ちゃんはこの歌を唄う前、はっきりとこう言った。“じゃあ、原発反対の歌を唄います”と。そして“これは大事なことだと思うので。イタリアの国民投票はどうなりましたかね?…。気になるよね”とも言った。
正直言って、僕は今日この歌が聴けるとは思わなかったから、びっくりしたし嬉しかった。実際、伸ちゃんの歌からは今こそこれを歌わなければならないという衝動が強く伝わってきた。隣の席では伸ちゃんファンの女の子たちが大喜びで盛り上がっていたけれど、僕は歓声をあげて拍手するような気分には、どうしてもなれなかったのだ。
この違和感をもう少しわかりやすく言うと、伸ちゃんと客席との間の温度差を感じてしまったからだと思う。伸ちゃんは、タイマーズの頃からずっとこういうことを歌ってきたし、この歌の日本語詞を書いた忌野清志郎の真意をよく知っているはずだ。言い方を変えれば、彼は誰よりもこの歌を唄う権利があると思うし、それだけの覚悟を持ってこの歌を唄っていると思うのだ。それに対し、僕らは当時どれだけそのことをきちんと受け止めていたというのか…。ずっと言い続けてきた人の前で、作り手だった清志郎の意思を引き継いだ伸ちゃんを前にして、“待ってました!”と言わんばかりに拍手するような気持ちにはとてもなれなかった。なんとなく後ろめたい気持ちになってしまったのが正直なところだ。

三宅伸治ソロコーナーのラストは、3.11震災後に作ったという曲だった。エンディングに“一緒に生きていこう…”というリフレインがあり、伸ちゃんはそこを観客に歌わせた。でも、嬉々として歌う観客を前に、またしても僕はシラけた気持ちに襲われた。それは「ラヴ・ミー・テンダー」で感じたものとはまた違った理由だったのだと思う。
あんまりこんなことは言いたくないが、津波の被害こそ無かったけど、僕の地元も震災の影響を受けた。両親はいまだに通常より遥かに放射性物質の濃度が高い福島県で暮らしている。そんな現実を前に“一緒に生きていこう…”と歌って、自分がさも彼らと何かを共有しているようなヒロイズムに浸るのは違うと思ったんだよな。はっきり言って、ここだけは僕と伸ちゃんとは明らかに気持ちがすれ違っていたと思う。だけど、これが僕のその場での正直な気持ちだ。

なんとなくうやむやな気持ちで迎えた2部は、リクオ+三宅伸治による「いいことばかりはありゃしない」や「デイ・ドリーム・ビリーバー」など、まさかと思える曲が飛び出した。更には20年前にリクオと清志郎が共作した「胸が痛いよ」も…。これは掛値なしに素晴らしかったと思う。正に一期一会、気持ちのこもった場面だった。
だけど、まさか「雨上がりの夜空に」を演るとは…。最近の伸ちゃんはいつもこの曲、演ってるのかなあ?僕は全く気持ちの準備ができていなかったので、正直言ってうろたえてしまった。考えてみれば、リクオの20周年を除けば、清志郎がいなくなってからの伸ちゃんのライブをじっくり観るのはこれが初めてだ。事前にこの曲をやることを知っていれば、もうちょっと違う反応になっていたのかもしれない。あるいは、これが「JUMP」だったら…。立ち上がってノリノリで盛り上がる伸ちゃんファンを横目で見て、なんだか僕は居心地の悪さを感じてしまった。
ただ、思うんだけど、この日は立った人半分・座ってた人半分。ライブは間違いなく、ここを盛り上げどころとしていたと思うのだが、立たなかった人たちの中では、僕と同じような気持ちになった人も多かったのではないだろうか?

この夜、僕はなかなか寝付けなかった。この日ライブ中に感じたいろんな感情をひとつひとつ思い出しながら、移ろいゆく自分の気持ちを持て余した。
この日のライブで、伸ちゃんは“こんな時こそ音楽の力が必要になると信じています”と言った。そうかもしれない。いや、きっとそうだろう。でも、音楽ってのは、歌ってのは、その時その時の聞き手の感情と、歌と接してきたそれぞれのバックボーンによって、受け取り方が全然違ってくるやっかいなシロモノでもあるのだなあ、ということを体験として学んだような気がする。まして、この時期は未曾有の大震災や、故郷に対する複雑な思いや、いなくなってしまった人のことや、いろんな要素が絡み合ってるんだから、こんな気持ちになってしまうのは当然といえば当然なのかもしれない。
音楽の持つセンチメンタリズムに溺れずに、自分の正直な気持ちを大事にするのは意外と難しい。でも、本当に音楽の力を信じるならば、こんな気分の夜を潜り抜けることも必要なんじゃないだろうか。僕はそう思う。

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2011年6月10日 (金)

イデオロギーで原発を語るな。

原発事故を経験してきて、僕はこれまでの考え方が根底から覆ってしまった。
今、強く思う。もう、これからは政治をイデオロギーで語るのはやめようではないか。思えば、戦後から日本はこの二極対立論のために、肝心なことを何も議論せずにきてしまったのではないだろうか。

具体的に言う。僕は福島県人だったから、自分の住む町からそう遠くない場所に原発がある危険性を頭では理解していた。RCの「サマータイム・ブルース」を聞いたときだって、まるで地元のことを歌われてるみたいで居心地の悪さを感じずにはいられなかった。当時も人から問われればこう答えただろう。“どっちかと言えば、原発には反対だ”。
でも、それは決して声高な主張ではなかったことを白状しなければならない。だって、少し前までは「原発反対」なんてことを口にすれば「あいつはアカだ」と言われかねなかったでしょう?原発反対運動は、長い間、核兵器廃絶の運動に関わっているような人たちの行動と同一視されてきた。それは社会主義系の市民活動と同じようなイメージがあり、あんまり入れ込むと周りからは思想的に偏っていると見られかねなかった。そんなリスクを背負うのは、組織に属するサラリーマンにとっては、かなり重たいことだったのだ。

そもそも、なんで原発に反対することが「アカ」になってしまっていたのだろう?3.11以降、激しい自戒と共に疑問を持ったのがそれだった。僕は、別に安保条約に反対しているわけでも、憲法9条を改正しなければならないと思っているわけでもない。自分の両親や友人の多くが住む自分の故郷に、あんな危ない物を置きたくないと思っているだけだ。でも、「原発反対」なんてことを声を大きくして言おうものなら、いつの間にか話がデカくなってアカ呼ばわりされ、議論は思考停止に陥ってしまっていた。

イデオロギーでものを語る人との議論はとても消耗する。彼らは対立的に物事を考えるクセが付いているから、自分と意見が違うというだけで、すぐに全面批判を仕掛けてくる。本人は無自覚なんだろうけど、決して自分の説を曲げようとせず、寛容な結論を良しとしない。さまざまな学習はしているのだろうが、それは自分を正当化するための一方向のものでしかなかったりする。
ヒダリかミギか、そんな風に色分けできるほどこの社会は単純ではない。だからこそ僕らは「議論」するのだ。議論とは違う意見をぶつけ合い、より良い打開策を共に見出すこと。日本は多くの人たちが最高学府まで進む国だから、リアルな現場で、たとえば大学のゼミなんかで「議論」の場に着いた経験のある人がたくさんいるはず。なのに、議論の場がいつの間にかイデオロギーの対立にすり替わり、最後は相手の人格批判で終わってしまう例を、僕らはこれまで何度見てきたことか…。かくして有益な議論や意見は、議論以前に封殺されてしまっていたのだ。
原発に関しても、これまで冷静な議論ができず、対立する2つの概念、つまり「安全」か「危険」かの二極論でしか語れなくなっていたのではないだろうか。その結果が今の惨憺たる状況を生み出しているのではないかと僕は思う。

いいかげん、僕らは学ばなければならない。戦後最大の国難を迎えた今、イデオロギーに囚われた時代遅れの二極対立論は何の役にも立たないということを…。ヒダリかミギか、人にレッテルを貼ってから議論をはじめるのは止めようではないか。この待ったなしの状況の中、そんなことばかりやっていると、肝心の目の前にある火急の問題がいつまでたっても片付かない。人は単純な善悪では語れないのだ。それが現実社会なのではないだろうか。

もう一つ、僕は極端に一方に振り切れる意見にも警戒心を持っていたい。
今、原発推進派の人は旗色が悪い。識者が少しでも原発に肯定的なことを言うと、すぐに御用学者呼ばわりされてしまったり、過去に東電のCMに出たタレントや文化人を吊し上げる風潮があるのは、とても危険なことだと思う。感情を伴った極論に走るのは簡単だし、気持ち的にとても楽だ。でも、それは正常な「議論」を成り立たせなくしてしまう恐れがあるのではないか。

あえて言う。こう言う時こそ原発を推進してきた学者や行政は、議論の場に出るべきだ。「安全」「危険」の二極論ではなく、これまでの原発を是としてきたデータを公開し、その根拠をきちんと説明する責任があると思う。
今、はからずも原発反対派の代表的な存在となってしまった小出裕章さんは、3月15日の昼間の実効線量というリアルな研究成果を持っている。17.1マイクロシーベルト毎時は、明らかに放射線管理区域となる数値なのだ。
今、誰もがこの先起きるかもしれない晩発性障害におびえているが、こんな時こそ、原発推進を進めてきた学者と行政は、これまでの疫学上の所見やデータを提示し、小出さんと議論してほしい。誰だって“御用学者”なんていう屈辱的な言い方はされたくないだろ?これは学問に身を焦がすものの名誉に関わる問題だ。そして、そんな建設的な議論は、今、未来が見えずに苦しんでいる日本に、きっと大きな国益をもたらすと思う。

僕は、個人が日本人や国家という意識をもつことを否定しない。しかし、その立つ位置を、一時の好き嫌いや周りでたまたま起きた事象で安易に翻すことのないようにしなければならないと思う。
僕らはリアルな世界で生きている。それは、原子力発電所が爆発し、炉心がメルトダウンし、挙句の果ては格し納容器までメルトスルーするという、悪夢のような世界だ。叫びだしたくなるほど悲しくて絶望的な世界だが、これが今の僕らのリアルだと悟らなければならない。
この激動の中、自分という存在は、時代と国、他者と個との関係性の中で常に流動化している。そんな自分を客観的に見つめる目が、3.11以降の世界では必要になってくるのではないかと強く思う。

僕らは今、真の意味での“戦後”を迎えたのだ。

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2011年6月 9日 (木)

今までとは違う世界

http://hiroakikoide.wordpress.com/2011/06/08/tanemaki-jun8/

愕然とした。東京でもある程度の放射線が飛び交っていることを覚悟はしていたが、まさかこれほどとは…。

しかも、都は“敷地境界で計測したら問題ない数値だったため、誤解を招かないために公開しなかった”そうじゃないか。

はあ?

だって、隣接するグラウンドからも放射性物質が出たんでしょ?
下水処理場には、日に何度もトラックが出入りしてる。それを今まで除線してたか?
子どもでもわかる。漏れてる可能性大。隠してるのだ!

素人考えだけど、東京は舗装された路面が多いから、土の土壌には放射性物質がより集中的に溜まり易いような気がする。都内には隠れたホットスポットがまだたくさんあるのではないだろうか?
僕はランニングが趣味だが、これからは土の路面や処理場の近くは避けた方がいいのかも。
大気を大量に吸引する有酸素運動を野外でやるのは、もう無謀なことになってしまったんだろうか…。

それでも僕はランニングを続ける。だって、もはや何処に行っても汚染からは逃げられないのだから、覚悟を決めて今の暮らしを続けるしかないではないか。
でも、子供たちや若者に対しては、覚悟を決めるでは済まされない。被曝を少しでも防ぐために、せめて情報だけはきちんとを出して欲しい。

きっと、この国の未来は僕らの世代ではどうすることもできないだろう。であるなら、僕らがせめてできることは、次の世代の被曝をできる限りの努力で防ぐことしかないのではないだろうか。

僕らが今立っている世界は、明らかに3.11以前の世界とは違うものなのだ。悲しいことだけど、もう死ぬまでそこで生きるしかない。

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2011年6月 8日 (水)

NHK ETV特集「細野晴臣 音楽の軌跡~ミュージシャンが向き合った"3.11"」

この番組は、音楽家・細野晴臣のこれまでの音楽史を振り返りつつ、3.11大震災を経験し、ミュージシャンとして今感じていることを率直に語るというものだった。細野さんの音楽史に関しては、これまでも様々なところで紹介されてきたので、僕にとってこれといって目新しいものは無かったが、震災後の言葉はとても強く心に残った。3.11を経験し、多くのミュージシャンが自分の立ち位置に悩んだと聞くが、こうしたテレビ番組で震災後の気持ちを直接語ったミュージシャンは、たぶん細野さんが初めてではないだろうか?

あるミュージシャンは、震災直後に行う予定のライブを中止した(“延期”と“中止”の違いは大きい)。あるミュージシャンは急性ストレス障害で倒れた。リスナーの間でも、震災直後は音楽なんか聴く気になれなかったという人は多かったのではないだろうか。細野さんも例外ではなかった。震災後、細野さんはしばらくは音楽が手に付かず、これから人が音楽家としてどうやって暮らしていけばいいのか、ずっと考え続けていたという。

震災後初のライブで、細野さんは会場の照明を極力抑え、楽器もアコースティックなものに変えた。そして、務めて震災のことに触れた。ステージ上で話を振られたコシミハルは、「今までは音楽をやっていてなんの疑いもなかったんですよ。でも、今回初めて“あれ?”って思ったんです。なんかね、(音楽やるのが)すごい虚しくなっちゃたんですよ…」と語っていた。

番組ではオブラートに包んだような表現になっていたが、僕は、細野さんは震災に心を痛めているのはもちろんだろうけど、それ以上に原子力発電所が大事故を起こしたという事実が、とても大きな心の傷となったのだろうと思った。
細野さんは終戦の2年後に生まれている。番組での「原点はやっぱり戦後。敗戦ってこと。そういう中から生まれてきた。僕もそうだし、僕の音楽もそうですよね…」という発言のとおり、細野さんの音楽の原点はアメリカだ。少年時代、ラジオから流れるアメリカのカントリーやポップスが彼を音楽に目覚めさせた。それは細野さんだけじゃなく、ムッシュかまやつやマイク真木など、日本のポップス黎明期の人たちはみんなそうなのだ。敗戦後、日本がアメリカの占領下だったことは、僕らの文化にとても大きな影響を及ぼしている。それはネガティブに言えば占領国から植え付けられたものだったのかもしれないが、すごく面白く、素敵なものだったから、細野さんたちの世代はアメリカを積極的に吸収し、結果としてそれが今僕らの目の前にある文化のかなりの部分を作ったのである。
“日本のロック”もその一つなのだ。日本のロックとは、もともとここにあったものではない。アメリカの芳醇な文化への憧れが、形を変えて進化してきたものなのである。

思ったんだけど、なんとなく、これって日本の原発の歴史と似てないか?
戦後、日本は貧しかった。国土が狭く資源がない日本にとって、経済でアメリカと肩を並べようと思ったら、選択肢として原発が一番手っ取り早かったのだろう。1957年8月27日、茨城県東海村・日本原子力研究所第1号実験炉に「原子の火」が灯った時、原子炉の完成を祝って提灯行列が行われたという。今となっては信じられないことだが、これは明るいニュースだったのだ。かくして、戦後の日本企業は、電力会社から安い電力の供給を受けることで高度経済成長を成し遂げた。その影には第5福竜丸事件や冷戦時代の米ソの核実験による放射能の雨などもあったのに、日本はアメリカへの憧れ、豊かさへの乾きを遂に抑えることができなかったのだ。
よく考えれば、その危険性は誰にでもわかるはずだったのに、誰も現実を直視しようとはせず、官民一体でアメリカの援助を受け、2011年3月11日にいたるまでただひたすら突っ走ってきた。それもこれも貧しかったから…。考えてみれば、日本とはなんて悲しい国なんだろう…。

細野さんは、そんな自分の立ち位置のねじれを、音楽家特有の鋭い感覚で一瞬のうちに悟ってしまったのだと思う。そして、僕自身が3.11以降に感じていて、たぶん僕以外の多くのロックファンも感じているであろう違和感の正体もこれだと気が付いた。

憎むべきはずの原発で作られた電気でロックコンサートを楽しみ、その日の暮らしすらままならない人たちがいることを知りつつ、3ヶ月前と同じように一時の享楽に歓声を上げ、拳を振り上げることの後ろめたさ…。そもそも、僕らが興じている“日本のロック”とやらは、果たしてアメリカからの輸入品の域を脱し得たのか…。3.11を通過して、僕らは悟ってしまったのだ。僕らは限りなく、どうしようもなく、ねじれまくっている…。
これが僕たちの今なのだ。きっと何も感じず、3.11以前と同じように音楽を楽しめている人たちもいるだろう。それはそれでいいだろう。でも、僕はもうそこには2度と帰れないと思う。3.11以降、何かが決定的に変わってしまったのだ。

ただ、こうなって見えてきたものも確かにある。それを僕は大事にしようと思う。東京の街が暗くなり、アコースティックな響きの美しさがどれだけ人の心を温めるか、僕ははじめて気が付いたような気がする。少年の頃から夢中になってきたR&Rだって、本来あんなゴテゴテの照明の下でプレイする必要はない。R&Rは煙草と汗の匂いの沁み込んだ穴蔵でこそ美しく鳴り響くものだということもわかった。

細野さんは「音楽も、ともし火だとしたらそうでありたい」と静かに語る。ほんとにそうだよな…。音楽で何かが変えられるものではない。音楽はそんなに大層なものではない。でも、3.11直後に一部の人が言っていたような、音楽は心に余裕がない時には楽しめないなんてことは絶対にない。
くるりの岸田繁との対談で、細野さんはこんなことを言っていた。「震災以降、幸福とは何なのかをずっと考えていたが、それは案外普通のことなのかもしれない。僕が一番好きな時間っていうのは、自分の部屋で汚いソファーに座って、汚いギターを持って、それで爪弾いて曲作ってる時。それが一番幸せなんだ」

美しい言葉だと思う。
本当に、本当に美しい言葉だと思う。

この番組は、最初は4月にリリースされた「HoSoNoVaA」の製作に併せ、細野さんの軌跡を辿るような構成で企画されていたんだと思う。だが、あいだに3.11の震災が起こったことで、今、ミュージシャンは何を思い、どう生きていこうとしているのかといった重い意味合いが加味されることになってしまった。細野さんにとってそれが本意かどうかはわからない。でも、番組で語られた細野さんの言葉は、細野さん自身が作った“日本のロック”の洗礼を受けて育った僕のようなロック馬鹿が、これから放射能にまみれた21世紀を生き抜く上で、何がしかの光が見えるようなものとなったことは確かだ。

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2011年6月 6日 (月)

【本】ハーモニー / 伊藤 計劃 (著)

44085bd71 今年の4月、一人の日本人SF作家が賞を受賞した。82年に亡くなったアメリカのSF作家ディックの名を冠したフィリップ・K・ディック記念賞。これは洋の東西を問わず、一年間アメリカでペーパーバックで出されたすべてのSFの中から選ばれるものだそうだ。これに日本人として初めて選ばれたのが伊藤計劃。
ただ、この作家はもうこの世にはいない。彼は20代で肺癌を患い、2年前に亡くなっているのだ。受賞作の「ハーモニー」は、彼の遺作として発売され、作者不在のままこの栄誉ある賞を受賞した。
僕は昔からフィリップ・K・ディックの大ファン。彼自身、もう30年も前に亡くなっているんだけれど、不条理な世界をドラッキーに描く彼の世界は、いったんハマるとなかなか抜けられない。久々に聞くディックの名の付いた賞をとった「ハーモニー」とは、いったいどんな小説なのか…。そんな興味から、僕はこの本を手に取ったのである。

小説の舞台は21世紀後半だ。そこは「大災禍」と呼ばれる核戦争後の世界だった。すべての人々が「生府」に統治されている完璧な管理社会。成人すると体内に埋め込まれる医療分子によって、個々人の健康状態が常に監視され、その情報は周りの人へも開示される。病気になると早急に治療を受けることができ、酒やタバコ、カフェインみたいな健康に害を及ぼすに結びつく物質も社会から隔離。人々は健全で長寿をまっとうできるようになった。だが、それは裏を返せばうそ臭い優しさと安っぽい欺瞞に満ちた社会。プライバシーという言葉の存在しない、見せかけだけのユートピアなのだ。
そんな乾いた社会の残酷さに気付いた3人の少女は、個人の自由のもと、大人になる前に自らの意思で餓死することを選択する。だが、計画は失敗。少女2人は生き残り、精神的支柱だったミァハのみがこの世を去ったのである。
それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、生府に悪影響を及ぼす者を排除する生命監察機関に勤めていた。そして、ある日突然ともに生き残った友人キアンが、トァンの目の前で自殺を遂げる。この事件にかつてのミァハの影を感じたトァンは、医療経済の中心都市バグダッドへ向かい、死んだはずのミァハの姿を探し始める…。

読んでいてまず感じたのは、これは新しい世代の感性によって書かれたSFだってこと。伊藤計劃は1974年生まれだから僕より10以上年下。そんな若い作家の描くSF世界には、著者自身が通過してきたであろう、80年代後半からのバーチャルリアリティが色濃く反映されていた。「風の谷のナウシカ」、「エヴァンゲリオン」、各種ゲーム…。伊藤の作るSF世界からは、そんなものからの影響を色濃く感じる。文体も、PC上に打ち込まれたコマンドやサイバーパンク的な科学用語が散りばめられているが、小難しさやオタクっぽさはなく、とても読みやすいのには感心してしまった。僕なんて、SFっていうと新しめでようやくディック、下手するとH.Gウェルズあたりまで遡っちゃうぐらいなので、このスタイリッシュな世界観にまずは素直に驚いた。

SFってのは、ある意味、舞台装置の設定が成功の鍵を握っていると思う。この段階で魅力ある世界が構築できていれば、自然と物語りは転がり出す。その点、「ハーモニー」の世界観は序盤から完成度が高いと思わされ、SF的センスを持った読者なら、あっという間に引き込まれてしまうのではないかなあ?
伊藤の作り上げた悪夢のような世界に迷い込み、僕は、リスクを背負いながらも健康と長寿が甘受できる社会がいいのか、それとも、たとえ罹患や死という結果を招く恐れがあっても、個人の尊厳と自由が守られる社会をユートピアと呼ぶべきなのか、読み続けるごとに揺れ続けた。

そして気が付いた。これほど極端ではないにせよ、僕らの住む世界も「ハーモニー」で描かれた世界に大なり小なり似ているところがあるのではないだろうか。
僕らの住む世界では、便利で自由なものを普遍化するためには、少数意見を黙殺せざるを得ないところがあるでしょう?たとえば、ネット上での個人情報の公開、カード決済やネットバンキングなどに関する感覚なんかは、10年前は今よりずっと警戒心を抱いていたように感じる。でも、いまやプロバイダ契約するのだってカード決済が一般的だし、ショッピングだって店舗よりネット上のほうが安価で得になりつつあるから、嫌でもその流れに乗らざるを得ない。いつか自分の情報が漏れやしないかという不安を微かに抱きながら…。

もしかして、昨今同輩連中がビクついてるメタボリック症候群とかだってそうかも。なんてったって、あれは国が勝手に基準を定めてるだけなんだから。あれは病気ではない。病気になるリスクは高いのかもしれないが、“病気になる”のと“病気になるかもしれない”は決定的に違う。そんなことを国から言われるのは、はっきり言って余計なお世話なのではないか?。極端に言えば、“太る権利”を侵害していることになるんじゃないのか?
メタボが叫ばれてから、日本人はスポーツが苦手な人でも身体を動かすことを考えざるを得なくなり、美食家でもカロリーのことが常に頭から離れなくなった。それはもしかしたら「ハーモニー」で描かれてる健康共生(強制?)管理社会のはじまりだったりするのかも!

ま、半分冗談だけど(笑)、早期発見・早期治療の名のもとに、国民の健康管理を外部機関が完璧に管理するのが更に進めば、人間社会に悩みや諍いごとが起きるのは個人の意識によるものなのだから、いっそのことそれも無くしてしまえばいい。個人が意志を主張する場を無くし、個人と社会とを完全に調和(=ハーモニー)させちゃえんばいい…。そんな社会にほんとに行き着いてしまうかもしれない。そんな恐怖感をちょっと味わってしまったんだよね。

人間にとって幸福とは何だろう…。読み終わって僕はそんなことをぼんやり考えた。何かを失っても、とりあえず平穏に生きていることが幸せなのか。死や病気に関してもそのリスクは自分の自由意志で引き受けていくのが自由なのか…。
こんなことを思ってしまうのは、もしかしたら僕が人類史上例のない原発事故を体験してしまった後だからかもしれない。でも、果たして人類はこのまま進歩を続けていいのだろうか。科学の発達は果たして真の幸せをもたらすのだろうか…。
優れたSF小説ってのは、僕らの住む世界の捩れを合わせ鏡のように投影してくれる。

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2011年6月 1日 (水)

麗と蘭 <祝!結成20周年! アコースティカルライブ「THANK YOU Everybody」> / 2011年6月1日(水)南青山MANDARA

麗と蘭 <祝!結成20周年! アコースティカルライブ「THANK YOU Everybody」>
2011年6月1日(水)南青山MANDARA
開場18:00 開演19:00 \6,700

久々の麗蘭ライブ。これは当初4月に行われる予定だったのだが、3.11東日本大震災の影響でこの日に延期になったもの。日程がずれたために来られなかった人たちがけっこういたようで、チケットがソールドアウトだったにもかかわらず、いつものMANDARAより客席はかなり余裕があった。もしかしたら、僕が行ったCHABO関連のライブでこんなにゆったりライブを観るのは初めてかもしれないぞ(苦笑)。でも、それで盛り上がりが欠けるなんてことはもちろん全然なく、麗と蘭久々の揃い踏みに、客席からは曲が終わるたびに歓声があがっていた。

個人的には、昨年暮れの麗蘭のツアーは一度も観られなかったので、昨夏に吉祥寺で行われたイベント以来の麗蘭ライブってことになる。いや、待て。これは正確には“麗と蘭”だから、2008年の横浜まで遡らなければいけないのか…。麗と蘭、なんと3年ぶり!うーん、そう考えると、ほんと人生って早いや…(苦笑)。
でも、もっと驚いてしまうのは麗蘭が今年結成20周年を迎えるってこと。20年!そんなになるのか…。一夜限りだと思われたこのユニットも、気が付いたらRCサクセション、ストリート・スライダーズの活動時期よりも長くなってしまった。確かに今の麗蘭には、初期のライブのようなどう転がっていくかわからないような刹那感はなくなってきているかもしれない。でも21世紀の麗蘭には、それ以上に音楽を愛して止まない、人を慈しむような温かさがにじみ出ている。

この日、意外だったのは登場する時のSEで、おなじみの“波路はるかに”の前に“麗蘭のテーマ”が流れたことだ。MANDARAの瀟洒な店内にマンドリンの哀愁を帯びた音色が流れると、目の前にモノトーンの京都の街角の映像が浮かぶ錯覚にとらわれてしまう。きっと、僕意外にもそんな気持ちになった人が多かったんじゃないかなあ…。これは、麗蘭初のビデオ作品「Welcome Home!!」のオープニングに流れていた曲だからね。このビデオに強い思い入れを持つファンは今でも多いし、その中でも、このモノトーン映像は、とりわけ強い印象を残しているからだ。
きっと2人はネラっていたと思う。この日のライブは序盤で初期の曲が多く演奏されたのだが、初っ端で“麗蘭のテーマ”が流れたおかげで、自然と観客の耳も初期モードになったような気がするのだ。「ミッドナイト・ブギ」、「待ちわびるサンセット」、「顔」、「シャスターデイジィー」…。うーん、やっぱイイわぁ~1stアルバムの頃の曲は…。

公平の12弦アコースティックギターを久々に聴けたのも嬉しかった。「待ちわびるサンセット」のイントロ、公平のザクッとした12弦のカッティングにCHABOの綺麗なアコギが絡む瞬間がたまらない。この音色…。やっぱり大好きだ!この日は「シャスターデイジィー」も演奏され、サイケデリックな香り漂う初期麗蘭の魅力が近年になく引き出されていたと感じた。

この日、初期の曲が近年になく“麗蘭っぽい”と感じたのは、もしかするとこのライブが“麗蘭”ではなく“麗と蘭”だったことも大きかったのかもしれない。ドラム、ベースが入ったロックモード全開の麗蘭ももちろん魅力的だが、アコギ2本だと音数が少ないから、結果的に2人はより音色やフレーズに凝ったプレイを展開するようになっていると思う。それが初期の麗蘭に顕著だった、バンドと言うよりも2人の異質な(でもないけど)ギタリストの絡み合いというシチュエーションに近くなっているのかもしれないと思うのだ。
そういえば、2000年代初頭の麗蘭では、CHABOがあまりギターを持ち替えず、エレキを弾く時以外は大部分をチェット・アトキンス・モデルで通していたことがあったっけ。アコギでもエレキでもない、エレアコサウンドの追求と言う意味で、それはそれとして理解はしていたけど、正直言うとちょっと物足りないと思う時もないわけではなかったんだよね、自分は。“麗と蘭”を通過してからのCHABOは、頻繁にギターを変え、より音色にこだわったサウンドを聴かせるようになったと思う。
こんなことをCHABOが聞いたら、きっと怒るだろうけど(苦笑)、これは、2008年に使用楽器を盗まれるという不幸な事件に見舞われたことで、結果的にチェット・アトキンス以外のギターを使わざるを得なくなった副産物だと思うんだよね。あの事件が結果的にCHABOのギターの可能性をより切り拓いた…。“災い転じて福となす”じゃないけどね(苦笑)。

ただ、序盤こそ1stアルバムの曲がいくつか演奏されはしたが、中盤以降は2000年以降のアルバムからの選曲が多くなり、全体としてはバンドの20年がとてもバランスよく選曲されたライブだった。
ブルース・フィーリングたっぷりの「運」や「Blue Blue」。ロックスピリッツ溢れる「SOSが鳴ってる」や「あこがれのSouthern Man」。アコギの美しいインスト「EDEN」。このバンドの幅広い音楽性を示す(注・CHABOのMCそのままです(笑))ボサノバの「おいしい水」…。2時間半の時間でいろんなタイプの楽曲が演奏され、全く観客を飽きさせない。4時近く演奏してた時期もあった麗蘭だけど、個人的にはこのぐらいにぎゅっと凝縮したセットの方が良いように思うなあ。

そして、何よりも強調しておきたいのは、2011年6月現在の“麗と蘭”は、温かさにあふれていたということだ。この温かさと慈しみ、それこそが今この時に“麗と蘭”が伝えたいことなのではないか。
最近のライブレポを書くといつもこんなことばっかり書いてしまうが、3.11を通過した今、やっぱり演る方も観る方も、自分たちの現在地を確認するような音楽への接し方になってしまうのはしょうがないと思うのだ。
3.11を超え、麗蘭はより強く音楽に回帰した。救いの神、それはミュージック…。麗蘭が20年通して掲げてきたメッセージは、より色濃く、より優しく僕らの耳に届くようになった。それは、20年前の麗蘭と比べ、少しだけ優しくもっと大きくなったように思う。人はそれを“円熟”というんだろう…。
ぐっとテンポを落とし、より雄大に、よりドラマチックに、より噛み締めるように演奏された「Get Back」を聴いて、僕はそんなことを思った。

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