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2011年8月

2011年8月25日 (木)

3G(吉田建 仲井戸麗市 村上秀一)「All Cover Night!!」 / 2011年8月25日(木)Billboard Live TOKYO

“全曲カヴァーだけを演奏するライブ”っていうのは、なんだか3Gにぴったりな気がする。もし、麗蘭やCHABO BANDにこんなオファーが来たって、CHABOは絶対に引き受けないだろう。逆に言えば、この夜のライブは3Gというバンドがあるからこそ観る事ができたスペシャルなものなのだ。うーん、感謝しなきゃ!(笑)

Billboard Live TOKYOという会場、実は僕は初めて。もちろんその存在も、以前麗蘭がライブをやったことも知ってはいたが、なんとなくセレブな雰囲気が合わなくて腰が引けていたんです(苦笑)。でも、行ってみてゴージャスなムードにすっかりハマってしまった。なんだか、ニューヨークの有名ライブハウスみたいだ(行った事ないけど…)。海外のミュージシャンのライブ映像なんか見てると、バリバリにロック系の人でも、小奇麗なライブハウスで大人を前にしたステージをやってたりしている。だけど、日本ではそういう所があまりないですよね。たまにはこういうのもいいなあ~なんてコロッと考えが変わってしまった(笑)。たおえば、こんなお店でニック・ロウなんか見たら、そりゃあいいだろうなあ…。

僕が見たのは、2ndステージ。開演の21:30になると、3Gの3人とサポートミュージシャンの女性が1階フロアの客席袖から登場してきた。CHABOはいつものようにアロハシャツにパナマ帽。吉田健はオレンジの鮮やかなシャツの上に黒っぽい上下でキメている。ポンタにいたっては、なんとTシャツと短パン!3人の格好は見事にバラバラなのだが、これが妙にサマになっていた。

オープニングはボブ・ディランの「アイ・ウォント・ユー」。これはかなりひねったアレンジになっていた。凝ったイントロをテレキャスターで弾き倒すCHABO。原曲の印象的なリフメロがないから、最初僕はサビに来るまで何の曲かわからなかった。
CHABOのテレキャスターは、素晴らしくイイ音で鳴っていたなあ~。この会場がとても音響がいいことにもすぐに気が付いた。僕はカジュアルエリアという、ステージを上から見下ろす席だったんだけど、ど真ん中だったこともあって、艶やかでハリのあるフェンダーサウンドが会場いっぱいに鳴り響くのが身体全体で感じられ、ものすごく気持ちよかった。ポンタの凝ったドラムワークも、この場所からは良く見えた。

春に初めて3Gを観た時にも感じたことだが、このバンドでのCHABOはエレキを弾く場面がとても多い。手にするギターは、エレキに関してはテレキャスター一本で通していた。3Gに限らず、最近のステージでエレキを手にする時には、テレキャスの比率がかなり高くなっているCHABOだが、この日はまさにテレキャス三昧。これは絶対にCHABO、意図してやってると思う。
ザ・バンドのカバー「トワイライト」では、イントロでロビー・ロバートソンばりのパキパキ・ギターを披露する。これには客席も大喜び。“ロビー!”なんて掛け声もかかって“さっき(1stステージ)よりウケてる…”とCHABOも嬉しそうだった(笑)。

選曲はけっこうマニアックだったと思う。ヴァン・モリソン、エリック・クラプトンなど有名どころのカバーでも、曲はけっこう渋めのものが選ばれていたし、きっとやるだろうと思っていたビートルズ関連でも、選ばれたのはジョンでもポールでもなく、リンゴ・スターのソロ。「ユア・シックスティーン」だの「オー・マイ・マイ」だのってのは、かなりの洋楽ファンじゃないと知らないんじゃないだろうか?
それと、3GでのCHABOはあまりディープなブルースを歌わないのも特徴的。あまり個人の趣味を極めると、CHABOのブルース、吉田健のブリティッシュロック、ポンタのジャズという風に、ジャンルが拡散して収拾がつかなくなっちゃうのかも(笑)。3Gのベースはあくまでも3人が若かりし頃に共通して親しんだ、60年代・70年代のロックという括りに統一しているのだろう。R&Bからはオーティス・レディングの「セキュリティ」がセレクトされていた。

3Gの演奏を聴いていて感じるのは、この世代ならではの独特のタイム感。特にポンタによるリズム生成が大きいのだが、それにCHABOと吉田健がすんなりとついていってるのは、やっぱり同世代ならではの共通した感覚があるからだと思う。ポンタの独特のタメと、バンド全体のいい意味でのルースさがとにかく絶妙。もう少し下の世代になってしまうと、この微妙なノリがなかなか出ないのだ。

個人的に一番意外だったのが、ローリング・ストーンズのカバー。普通だったら60年代や70年代のレパートリーからチョイスすると思うわなあ…。ところが、選ばれたのは2005年のアルバム「A BIGGER BANG」からの「Rain Fall Down」。これは最高にカッコよかった!アレンジは原曲に忠実で、特徴的なリフレインもそのまま。テレキャスターの切り裂くようなリフが炸裂し、吉田健のベースもファンキーにぐいぐい攻める。逆説的な言い方になるが、こんなにカッコいい曲だったのか!と再認識した。エンディングではCHABOのフリーキーなギターソロが大爆発。ロックギタリストCHABOを十分に堪能でき、この1曲が聴けただけでも、ライブに足を運んで良かったと思った。

アンコールでは、CHABOがチェット・アトキンス・モデルを手にして、デレク・アンド・ドミノズの「リトル・ウィング」をプレイする。言わずと知れた、大事な人を偲ぶ特別な日本語詞が歌われる。歌い終えて天を指差すCHABOに、僕もこの特別な夏にここにいない人、本当はこんな時こそここにいて僕らを救って欲しかった人のことを思った。

最後はCCRのプラウド・メアリーでにぎやかに幕。
約1時間30分のステージは、いい意味でとてもリラックスした楽しいライブだった。なによりも自分たちのルーツにあたる音楽を演奏している3人の少年のように楽しそうな表情が印象的だった。
カバーばかりのライブではあったが、実際はかなり凝ったアレンジが施されていたり、詞もCHABO流の日本語に置き換えられているので、ほとんど新曲を聴いているような気分。その日本語詞も、原曲のニュアンスからさらに飛躍して、「Rain Fall Down」や「Where Have All The Flowers Gone?」などは、僕にはまるで今の日本の状況を歌っているようにも聴こえてきた。

今年の春に結成されたばかりのバンド3G。出来立てほやほやと言ったって、CHABOにポンタに吉田健という百戦錬磨のメンツが集まってるんだから、音はもうほとんど完成されていると言っていい。大ベテランの3人が今になって結集するまでにどんな物語があったのかはわからないが、長い間、様々なフィールドで活躍してきた3人は、ここいらで自分たち世代の立ち位置をもう一度確認したくなったのではないかと想像する。肩の力を抜き、もう一度少年のような気持ちで音楽を楽しみたい…。コーナーを回った彼らは、今、そんな気持ちでいるのではないだろうか。
少なくとも、CHABOにとっての3Gは、麗蘭やCHABO BANDとは違う、もっとフランクなタッチで関わっているものなのではないかと僕は思う。

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2011年8月22日 (月)

長男、無事帰国

この夏、イギリスに2週間の短期留学に行っていた長男が、今日無事に帰ってきました。
こんなに長く親と離れて暮らすのは生まれて初めて。まして右も左もわからない外国とあっては、さぞほっとした顔で帰ってくるんだろう。もしかしたら、僕の顔を見て涙の一つでもこぼすかもしれないなあ…。なーんて、親は淡い期待を抱いて空港に迎えに行ったのですが…。









うーん、甘かった…(苦笑)。









長男は、向こうで知り合ったらしい友だちと2人並んで、たらたらと帰国ゲートを出てきました。そして、外国人のように彼とがっちりハグ。ひとしきり別れを惜しんだあと、僕の顔を見るなりこう言い放ったのだ。











あーあ。もっと向こうに居たかったよ。がっかりだあ…。










これには正直参った(苦笑)。最初は強がりを言ってるのかと思ったのだが、どうやら彼は心底そう思っているらしい。
話を聞くと、せがれはそうとう楽しい2週間を過ごしたらしいのだ。留学中は大学の寮暮らし。午前中は英語の勉強。午後と夜にアクティビティがあるという生活。これが先生の授業は面白いわ、アクティビティーもサッカーやらディスコ大会やら盛りだくさんですごく充実していたらしいのだ。
何より、クラスメートやルームメートとは相当いい関係を作れたらしい。プログラム参加者はロシア人が最も多く、次いで日本、スペイン、イタリア、トルコなどから集まっていたという。せがれは5人部屋を割り当てられたのだが、日本人は自分だけだったそうな。だけど、みんな英語のレベルなんて似たり寄ったりだから、うちのせがれは臆することなんか全然なく、すぐに溶け込んでしまったらしい。そうなったら、国は違えど歳の近いティーンエイジャー同士、考えることなんか世界中どこでも同じ(笑)。学校の愚痴やら、女の子の話やら、寮内でのいたずらやら、とにかく寝る暇もないくらい楽しい毎日だったそうだ。たぶん、修学旅行のような興奮状態がずっと続いた感じなんだろう。挙句の果てには、ロンニチの女の子(留学仲間ではロンドン日本語学校の子たちをこう呼ぶそうです(笑))と留学友だちの仲を取り持つキューピット役まで引き受けたというから、驚きだ。

帰りのスカイライナーの中でも、スペイン人の女の子は自分の中学の女子とは比べ物にならないくらい美人で面白いだの、日本は電線が多くて汚いだの、東京は静かすぎて気持ち悪いだの、とにかく文句ばっかり言ってるのだ。まるで一昔前に海外旅行から帰ってきた田舎モンみたい。完全に外国カブレになっちゃってるじゃないか、こいつ!(苦笑)

しかしまあ、若者の適応力ってのはスゴイねぇ…。日本人ひとりで外国人に囲まれて暮らすなんて、正直言って僕だってちょっと腰が引けちゃうけどなあ…。まあ、予想以上に留学効果はあったみたいなんで、親としては喜ぶべきなのかもしれないけど、あまりにも外国カブレが続くようだと、今度は“逆カルチャーショック”に見舞われそうで、ちょっとヤバいかもしれない…。

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2011年8月21日 (日)

ソウル・フラワー・モノノケ・サミット『もののけ盆ダンスツアー2011~おいらの船は300トン』ゲスト:遠藤ミチロウ、上間綾乃 / 2011年8月21日(日)<東京>Zher the Zoo YOYOGI

今回の盆ダンスツアーは、僕がこれまで体験してきたモノノケ・サミットのライブの中でも、一番印象に残るものだったかもしれない。春から被災地での演奏を数多く行ってきた中川と、出身地が原発事故に直面してしまった遠藤ミチロウの組み合わせ。これは考えようによっては、かなりヘヴィなものになりそうな気もする。だが、僕はきっとそんな風にはならないと確信していた。きっと中川は、ソウル・フラワーらしい前向きな明るさに満ちた空間を作ってくれるだろう。そう思っていたし、事実そういう夜になった。
もしかしたら、震災後に足を運んだライブで、これほど心から笑い、楽しめたのはこれが最初かもしれない。そしてそれは、ライブの楽しさが原発事故のことを一時忘れさせてくれたという意味ではないのだ。ミチロウは原発事故で苦しむ地元の事を淡々と語っていたし、中川も被災地での様子を語りかけた。震災のことや原発事故のことは、ライブ中も一時も頭から離れなかったのだ。にもかかわらず、腹の底から笑い、声を上げて歌えるライブだったのだ。これってけっこうすごいことだと思わないか?亡くなった人を偲び、直面しているヘヴィな状況も乗り越えるために、今、笑い、歌う。オレ、思った。“盆ダンス”いわゆる日本の盆踊りっていうのも、そもそもはこういうものだったのではなかったかと。

オープニングは上間綾乃。この娘は昨年もモノノケ・ツアーに参加していたのだけれど、いかにも沖縄の女子らしい美貌とパンチのある歌声がgood!数曲島唄を歌っただけだったけど、モノノケのオープニングには最高にいい感じ。なんと言っても、おぢさんとしては、こんな若くて可愛い子が最初に出てくるだけでスイッチが入ってしまう(笑)。

しばしの間を置き、遠藤ミチロウが登場。実は、僕はミチロウのライブをモノノケと同じぐらい楽しみにしていた。ミチロウを観るのは、数年前に上野水上音楽堂で行われたイベント以来なのだが、何しろ、今夜は3.11以降はじめて見るミチロウだ。
歳は15も離れているが、僕とミチロウは同郷だ。僕は福島県福島市生まれ。ミチロウはその隣町、二本松の出身。僕の故郷もミチロウの故郷も、今回の原発事故でめちゃめちゃになってしまった。あれから5ヶ月も経つというのに、いまだに福島の人々は放射能に苦しめられている。
ミチロウをずっと見続けている人によれば、震災後のミチロウの発言・行動は、それ以前とは大きく変わったという。このライブの5日前にも、ミチロウは福島市で「プロジェクトFUKUSHIMA!」というイベントを主催し、犬猿の仲といわれていた坂本龍一をも呼び寄せた。
誤解されることを承知で言うと、僕は今回の原発事故に関して自分が抱えこんでしまった痛みは、同じ出所の人間にしかわかりあえないものなのかもしれないと思う。もっと言うと、この痛みは今福島にいる人たちの痛みともまた違う。もしかしたら、ミチロウの感じている痛み、悲しみ、怒りこそ、今の僕が共鳴できるものなのではないかという予感があったのだ。

そのミチロウ、還暦を迎えたとはとても思えない引き締まった肉体にまずは驚かされる。そして、まるで鶏の首を締め上げるようなバキュームヴォイス!まるで自分の喉に剃刀の歯を立てるような叫びに心臓を鷲づかみにされた。
ライブは「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」からスタート。生々しく、粗野なコトバが石つぶてのように放たれる。この瞬間から、もう僕の耳は目は、そして脳みそはミチロウに釘付けになってしまった。
たった一人でアコギを抱え、全身黒の衣装で毒々しい言葉が散りばめられた歌を次々に歌ってゆくミチロウ。しかし、歌の合間に語られるMCはとても丁寧で、胸が痛くなるぐらいに清々しい。これは、彼の口調から懐かしい東北訛りが聞き取れることも関係していたのかもしれない。
「プロジェクトFUKUSHIMA!」のために福島に帰った時、実家に寄って放射線量を測ったら、毎時3mシーベルト/hだったこと。昔懐かしい場所に行っても、表面上は何も変わっていないのに、測ってみると高い放射線が検出されてしまうことなどが訥々と語られたのだが、とりわけ僕は“自分は田舎が嫌で飛び出したのだが、こんな事故があってからは故郷のことを思わずにはいられない”という言葉が胸に刺さった。僕も、若い頃は田舎が嫌で嫌で仕方がなかった。そして、町を出て東京で生活の基盤を築いた結末がこの原発事故だ。あの日以来、地元に危険なリスクを担わせてまで、のうのうと暮らしていた自分が酷く汚れた存在に思えてしまう。そういった意味では、“一人ひとりの脳みその中に原発があるんだと思います”というMCの後で歌われた「原発ブルース」は強烈だった。
ライブが進むうち、以前はあまり理解できなかった遠藤ミチロウの歌世界は、実は故郷や親の世代、既成のものに対する愛憎半ばする複雑な気持ちを歌ったものだということにも気が付いた。もしかしたら僕の解釈は間違っているのかもしれないが、少なくとも僕をはじめとする地方出身者の心の奥に潜む複雑な気持ちを、これほど“きちんと”歌っている人を、僕ははじめて見たような気がする。わずか30分程度のステージだったが、遠藤ミチロウのライブは、僕に強烈な印象を残した。

インターナルの後、いよいよモノノケ・サミットの登場だ。「寅さんのテーマ」が会場いっぱいに流れる中、メンバーがステージに登場してくると、一気に華やいだ感じになった。モノノケ・サミットはメンバーが多くてそれぞれがバラエティにとんだ格好で楽器を持っているから、出てくるだけでステージがカラフルになるのがいい。
今回のセットリストは、中川がアコパルで被災地を回った経験が色濃く反映されており、東北の民謡が多かったのが特徴。これは福島生まれの僕にとって、とても親しみを感じた。東北とは言っても「斎太郎節」や「ドンパン節」は、地元の民謡ではない。だけど、やっぱり土台に流れる血はみちのくのリズム。これはいくら都会派を気取っても(別に気取っちゃいませんが(笑))、隠しようがない。ステージの演奏にあわせて手もみで拍子をとると、身も心も軽くなって自然と笑みがこぼれてきてしまう。

そんな東北の民謡に加え、「聞け万国の労働者」や「釜ヶ崎人情」のような労働歌を挟み込んだセットリストは絶妙だった。モノノケのライブではお馴染みの「ああわからない」なんて、今聞くと国の一大事にちっとも肝心なことをやってくれない政府のお偉いさんを歌ってるみたいに聴こえてしまう。これが大昔の歌なんだからなあ。いつの時代も庶民の目は心理を突いているってことか…。

昨年に続いて、上間綾乃も大太鼓でバンドに参加。2曲で歌も聞かせてくれる。この時、綾乃ちゃんは前に出てきてヒデ坊と並んでボーカルをとるんだけど、これがなんともカッコいい。特に「安里屋ユンタ」は、ビート感があって完全にロックだと僕は思ってるんだけど。

「お富さん」もぐっときた。僕がこの歌のすごさに気が付いたのは、数年前に観た「夕凪の街 桜の国」という映画から。原爆投下後の広島を描いた映画で、麻生久美子演じる主人公が「お富さん」をよく口ずさむ。僕は歌の意味がいまだによくわからないんだけど、あの明るいタッチで“死んだはずだよお富さん 生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏の…”と歌われると、“死”というヘヴィな事実を突き抜けようとするたくましさを感じずにはいられない。

被災地の子供たちのために中川が選曲したという「アンパンマンのマーチ」も演奏された。これ、アコパル・ヴァージョン、リクオ&ウルフルケイスケ・ヴァージョンと3パターン聴いたが、僕はモノノケ・ヴァージョンが一番好き。音数が多いから、こういうマーチっぽい感じは良く合う。チンドン囃子の入ったマーチ、なかなかよかです。やなせたかしさんだって聴いたら絶対気に入ると思うなあ(笑)。
最後は気仙沼のおっちゃんたちに“これを演るとはツウだ”と言わせるための選曲という(笑)、必殺の「おいらの船は300トン」でオーラス。

アンコールでは、モノノケ・サミットのツアーTシャツを着たミチロウも加わり、ミチロウの曲を2つ共演。まずは、ボブ・ディランの曲にミチロウが歌詞をつけた「天国の扉」だ。壮絶…。これはかな~りぐっときた。やっぱりミチロウ、凄いや…。サビをコーラスする中川もヒデ坊も、きっとこみ上げてくるものがあったんじゃないかなあ…。そして、原発との別れをこめて歌われた「仰げば尊し」。ミチロウ、気持ちがビシビシ伝わってくる凄いステージを見せてもらったと思う。

いったん引っ込んだ後、すぐにダブルアンコール。最後はモノノケだけで「さよなら港」で楽しい夜は終わった。
なんだか、時間の経つのがあっという間に思えた楽しい宴。終わったあとは祭りの後の寂しさに似た気持ちになったなあ。

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2011年8月19日 (金)

「MAGICAL CHAIN CARAVAN vol.2」【出演】ウルフルケイスケ&リクオ サポート:朝倉真司(パーカッション) / 2011年8月19日(金) 横浜 Thumbs Up

リクオとウルフルケイスケは、よっぽどウマが合うみたい。今年の春(ちょうど震災があった頃)に行われた1回目のジョイントに続いて、今月からは11月までの長いツアーが行われることになった。この日はそのツアーの2日目。残念ながら、あいにくの雨模様の天気で観客も決して多くはなかったのだが、ノリは最高。最初から最後までパーティーのような感じで大いに盛り上がった。
Thumbs Upに言ったことのある人ならわかると思うけど、アメリカのダイナーみたいな雰囲気でドリンク&イートでライブを観るスタイルは、ハマる時はとことんハマる。ライブによっては、テーブルごとに客席が分かれる感じが馴染まずに、なかなか盛り上がらない場合もあるのだが、この日のライブは完全に吉と出た。これは、プレイされた音楽が、R&BやR&Rをベースにしたとことん明るく楽しいセットリストで貫かれていたからだと思う。やっぱ、この手の音楽にThumbs Upは最高に良く合う。僕も、ハンバーガーをほお張り、ビールを飲みながらゴキゲンな時間を楽しんだ。

ウルフルケイスケの持ち歌は、僕はほとんど知らないのだけれど、とにかく難しい話はいっさい抜きで、リズムとビートでとことん楽しもうぜ!と言わんばかりの底抜けにブライトな曲ばかり。この日のケイスケはギターを全く持ち替えず、すべてテレキャスター一本で通していたのだが、本人もステージで語っていたとおり、ギターに繋いだThumbs Up据付けのFenderアンプとの相性が抜群だった。陽気でハリのあるいかにもテレキャスらしいサウンドがフロアいっぱいに響き渡り、すごく気持ちよかった。

アンコールでは、サプライズであるお客さんへのハッピー・バースデイが歌われ、お店からケーキまで贈られる場面も。これでまたまた盛り上がった客席は、アンコール後のBGM(「君の瞳に恋してる」だったかな…)でも大合唱。これに応えて、ミュージシャン側も予定外のダブル・アンコール!ステージに出てきたリクオも“BGMでこれだけ盛り上がったライブは初めてだ…”と笑っていた(笑)。

ただ、MAGICAL CHAINを見ていると、僕にとっては、なんだかリクオのソロライブが無性に見たくなってしまうのも正直な気持ちなのだ。そういった意味では、100%ノリ切れたとは言い切れない部分もあったことを告白しなければならない。同じギタリストとのジョイントでも、山口洋とのHOBO JUNGLEでは、こんな気持ちは全く起きないんだけどなあ…。思うんだけど、ウルフルケイスケとの組み合わせはリクオの“陽”の部分をとことん光らせる反面、鬱々とした繊細な側面(それも僕にとっては大きな魅力なのだが)が目立たなくなってしまう傾向がある。そこがライブを観ていて何となく物足りなく思えてきてしまうのではないだろうか。
まあ、この組み合わせはこういうものと割り切って楽しめば良いのだと思う。この日ライブにどっぷりと入り込めなかったのは、こちらの精神状態もたぶんに影響していたに違いない。
実は、このライブ、11月にも下北沢で見ることになっている。ツアーやイベントを挟んで3ヵ月後のライブ。そこで2人のプレイする音楽がどれだけ進化しているものなのか確認するのが楽しみだ。

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2011年8月18日 (木)

放射線の中で暮らすということ

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福島から帰ってきた。親も元気に暮らしていて、とりあえずはほっとする。
僕の実家のある福島県白河市は、震災の爪跡は表面上はもうほとんど残っていない。だが、空間放射線量は、相変わらず毎時0.4~0.6マイクロシーベルトと高い。しかも、実家の近くの公園では毎時1.2マイクロシーベルトもの高い値が計測されている。

しかし、震災直後に帰った時も感じたことだが、現地にはそんな切迫した空気は全く漂っていない。それもこれも放射能には色も匂いもないからなのだと思う。もし、それに毒々しい色が付いていたり、強烈な異臭を放つようだったら誰だって逃げる。だが、やっかいなことに普段と変わりない生活をしていても、現時点では全く影響がないのだ。
そういった意味では、悔しいことに枝野さんの言う“ただちには人体に影響がない”という注釈付の言い方は全く間違っていない。現時点では、この低レベルでの長期間被曝がどの程度人体に影響のあるものなのか、誰にもわからないのだ。

両親も、普段と変わりない暮らしをしている。
そして、驚いたことに実家の敷地内に設けられている家庭菜園には、いつもの夏と同じようにミニトマトやナスなどの夏野菜が植えられ、両親はそれを普段と同じように食べていた。正直言って、僕もこれには最初ぎょっとしたのだが、結局は僕も滞在中、毎食それを食べたのである。だって、親の心づくしを冷たく拒否できるか?70を過ぎた親に、唯一の楽しみである家庭菜園を取り上げ、獲れたものを“何があるかわからないから食べるな”と言えるか?

こういうことを、一体どう考えたらいいんだろうか…。
もちろん、その野菜に放射性物質が含まれているかなんて、調べていないから全くわからない。白河市内で収穫された野菜には、今のところ国の決めた基準値以下の放射性物質しか検出されていない。だから、公にいわれていることを信用するなら、人体に影響はないと判断することもできなくはないのだ。だけど、レベルの大小はあれ、これほど線量の高い地域で作られた野菜に、放射性物質が含まれていないはずがない。やっぱり、僕はあれを食べるべきではなかったんだろうか…。東京に帰ってきてからも、僕はずっとそのことを考えている。

そして、こういうことこそが今回の原発事故の最大の怖さであり、難しいところなんだと痛感した。
繰り返しになるけれど、これから先、10年後・20年後に福島で何が起きるかは、今の科学では誰にもわからないのだ。でも、少しでも危険に対するリスクがあるのなら、それは大事をとってできる限り内部被曝しない暮らしをしていくべきだろう。だが、たった今、念には念を入れた行動をとることは、場合によってはそれまでの人間関係を壊し、生活習慣を根底から変えることになりかねないのだ。それがどれほど困難なことなのか…。たった数日間居ただけの僕がそう感じたんだから、地元で暮らす人たちの気苦労はどれほどのものなのか想像を絶する。

ただ、子供だけは守らなければならない。これだけは絶対に譲れない。
僕は今年、自分の子供を連れて福島入りしなかったし、仮に連れて行ったとしても、さすがに地元産の野菜を食することはさせなかったと断言する。それだけは確信を持って言う。
白河では、久しぶりに会った従妹が初めての子供を出産していた。生後3ヶ月。丸々と太った女の子だ。だが、この子にも自治体から小型の放射性測定機器が貸与され、今後長期間にわたってその累積量を記録されるというではないか。それがどれほど異常なことなのか、本当にみんなわかってるんだろうか?

僕の故郷は3.11以降、違う世界になってしまったのかもしれない。
いろいろ考えさせられた帰省だった。今年はいろんな意味で特別な夏だ。

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2011年8月14日 (日)

一人だけの帰省

明日から3日ほど帰省する。いつもは家族を連れてにぎやかに里帰りし、両親に孫の顔を見せていたのだが、今年は僕一人だ。理由は言うまでもない。子供への放射線の影響が心配だから。
僕の実家は福島県白河市。福島県の中では原発からだいぶ離れている地域なのだが、放射線量は通常より明らかに高い値が続いている。先月、福島県で最初にセシウムが検出された肉牛も、3.11以降に白河市から買い取られた稲藁を食べていたとされている。そんな町に家族を連れて帰るのは、さすがに躊躇ってしまう。
しかし、これが実家にはなかなか言い出せなかったのだ。年老いた両親にとって、孫の顔を見るのは何よりの楽しみ。そんな気持ちが痛いほどわかっているだけに、数日間帰省するだけなら大丈夫なのではないかと思い込みたくもなってしまう。だが、子供の内部被曝へのリスクは大人の数十倍という説もあり、10年・20年後に“あの夏、福島に帰ってなければ…”と後悔するようなことだけはしたくない。
様々な思いが逡巡し、ずるずると結論を先延ばししていた。そんな矢先、電話があったのだ。

「今年は無理するな。帰ってこなくていい」

父からだった。なかなか言い出せずにいたことを先回りして言ってくれたのだ。たぶん、父は僕が悩んでいることを察していたのだろう。正直に言うと、気持ちがぐっと楽になった。だが、父の胸のうちを思うと胸が痛む。誰よりも孫の成長を自分の目で確かめるのを楽しみにしていただろうに…。せめてもの慰みに、僕だけでも福島に帰ろうと決めた。

僕の父は、今はリタイアして田舎で静かに暮らしているが、現役時代は地方公務員として福島県庁に勤めていた。とりわけ農政部(今は名前が違うのかもしれないが…)に配属されていた当時の姿が印象深い。福島県は農業・漁業・畜産といった第一次産業に従事する人たちの割合が多く、農政部は県の農業政策を立案するところだから、県庁の中でも重要な部局だったのだと思う。父は県内をあちこち飛び回り、農家や猟師の人たちと様々な折衝をしていた。国との調整役を命じられて東京へ出張してくる機会も多く、僕の学生時代には新橋あたりで父と落ち合い、一緒に酒を飲んだ事もあったっけ。
そんな父だから、今回の震災と原発事故で福島の第一次産業が壊滅的な打撃を受けていることに心を痛めていることが、僕には痛いほどわかるのだ。
震災以降、父の様子が気になって電話をかける回数が増えたが、そんな時、父は自分のことよりも先に必ずこう言う。

「どうなっちゃうのかねえ、福島は…。」

その声を聞くのが、僕には本当に辛い。
恐らく、父が生きているうちに美しい福島が戻ってくることはないだろう。戦後の高度経済成長期を、ひたすら県民のために働いてきた父。今になって、ようやく静かな暮らしができるようになった矢先にこの原発事故だ…。一心不乱に働いてきた挙句のこの結末は、あまりに残酷だ。

僕には、年老いた父の姿が先日テレビで見た細野晴臣の姿と重なって見える。
細野さんは終戦の2年後に生まれているから、昭和12年生まれの父とは一回りも年が違うが、二人ともアメリカの影響を強く受け、日本の高度経済成長期を突っ走ってきた世代。細野さんは番組でこう言っていた。「僕の原点はやっぱり戦後。敗戦ってこと。そういう中から生まれてきた。僕もそうだし、僕の音楽もそうですよね…」。細野さんたちが作り上げ、今僕らが聴いている“日本のロック”は、もともとここにあったものではないのだ。アメリカの芳醇な文化への憧れが、形を変えて進化してきたものなのである。
同じように、父も高度経済成長期の日本において、ひたすら豊かな未来を夢見て邁進してきた。戦争を経験している父の世代の頭の中には、豊かな未来像の一つのイメージとして、ホームドラマに出てくるようなアメリカの姿があったのではないか。戦後の日本の復興のパワーは、戦前の日本に戻るだけではなく、“アメリカに追いつけ追い越せ”という意識があったからこそ実現できたのではないかと僕は思う。

そして日本はアメリカの開発した原発を選択した。国土が狭く資源がない日本にとって、経済でアメリカと肩を並べようと思った時、これしか選びようがなかったのだと思う。その影には第5福竜丸事件や、米ソの核実験による放射能の雨などもあったはずなのに、日本はアメリカへの憧れ、豊かさへの乾きを遂に抑えることができなかった。よく考えればその危険性は誰にでもわかったはずなのに、誰も現実を直視しようとはせず官民一体でアメリカの援助を受け、2011年3月11日まで、ただひたすら突っ走ってきた。
父も細野さんも、そんな自分たち世代の立ち位置のねじれを、今強く感じているのだと思う。

父の世代と、今を生きる若者達の中間にあたる僕らの世代は、これからの社会をいったいどう生きていけばいいのだろう?今年の夏はそんなことをよく考える。
僕は自分を、“上の世代が選択した原発という選択を受け入れ、その甘美な力を享受してきた世代”だと思っている。僕らは高度経済成長期以降の豊かさをたっぷりと味わってきた。そして、自分探しとかなんとか綺麗ごとを言いながら、自分自身をすごく可愛がることのできた世代なのではないだろうか?
もう充分。僕はそろそろ自分の生き方の割り振りを変えていこうと思う。今までが、自分のための部分=90%、次の世代のため=10%だったら、それをそれぞれ60%、40%ぐらいまでシフトできれば…。そして、できれば父がまだ生きているうちに、美しい福島が戻ってくる、そのとっかかりだけでも見せてあげられればいいなあと思う。

今年のお盆は特別なものになりそうだ。
粛々と墓参りをし、年老いた父母とたくさん話をしてこよう。

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2011年8月 7日 (日)

小さな旅立ち

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今日、我が家の13歳の長男が、海を超えて遠くへ旅立っていった。
なーんて言うとちょっと大げさだけど、この夏休みに中学2年生の長男は、たった一人でイギリスに2週間の短期留学に行くことを決めたのである。

僕ら夫婦は、彼が生まれた時から、物心ついたら早いうちに海外体験をさせようと思っていた。これからの世界を担う子供達には、日本の枠を超えて広く世界を見ることのできる感覚を持ってほしいと思うからである。
小さい頃から、長男にはそんな話を事あるごとにしてきたせいか、留学の話を切り出した時も、けっこう落ち着いて受け止め、すぐに“僕、行くよ!”と言ってくれた。もっと動揺するかと思ったんで、ちょっとびっくりしたし、たのもしく思った。子供だとばかり思っていたんだけど、もうこいつは一人の男として歩き始めているんだな…。口には出さなかったけど、すごく嬉しかったんだぜ、とーちゃんは!
で、今日まで着々と準備を進めてきたのだが、空港に着くとなんだか様子がおかしい。こいつ、ガラにもなく緊張しているのだ(笑)。大丈夫、イギリスでは楽しいことがいっぱい待ってるさ!

…とは言ってみたものの、内心は僕もちょっと心配だったりして…(苦笑)。
それに、こいつと二週間も、しかもお互いがこんなに遠くに離れるのは初めての経験なのだ。










はっきり言うと、とうちゃんはさびしいっ!(苦笑)。




思えば、茨城の従妹のところに遊びに行くのに、一人で電車に乗った時、こいつはガチガチに緊張してたっけなあ…。ほんの数年前の出来事だ。それが、今ではたった独りでイギリスにまで飛行機に乗って行くようになっちまったんだもんなあ…。怪獣だ、恐竜だって無邪気に騒いでた小さい頃が懐かしい。いつまでも子供だとばかり思っていたのに、いつの間にそんなにでっかくなっちまったんだよ。なーんか、しみじみわが子を見つめてしまった。

でも、こっちがしみじみしてるのに、女房ときたら“大丈夫でしょ。男の子なんだから!”の一言で淡々と済ませてしまう。うーん、こういう時はいつでも女の方が肝が据わってるものなのですね…(苦笑)。

きっと、この夏、こいつは見るもの聞くもの初めて尽くしの二週間を過ごすのだろう。
戸惑うことにも、不安なことにもたくさん出会うに違いない。
でも、きっと大丈夫!上手くいくことも、上手くいかないことも、一つ残らずおまえの大事な財産になるはずさ。いっぱいいろんなことにチャレンジして、いっぱい恥をかいて帰って来い!

二週間後、一回り大きくなって帰ってくるお前の笑顔を見るのを楽しみにしてるぞ。
そのでっかいスーツケースにも入りきらないような、大きな大きな思い出をいっぱい持って帰って来い!
はっきり言って、とうちゃんはお前の若さがまぶしくもあったんだぜ、今日は…。

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2011年8月 5日 (金)

奇妙な世界

下のエントリーに自己レス。

今日の朝の日本テレビの番組「ZIP!」に、件のRock in Japan Fes.が取りあげられていた。それが“毎年家族連れの多い、子どもも楽しめるロックフェス”という切り口だったのには驚愕した。出演者に日本人ミュージシャンが多いこと、会場に子供も楽しめる施設が併設されていることがその理由だったのだが、それを言うなら、会場では通常の放射線量である0.10マイクロシーベルトよりも高い値が検出されているという事実と、子供が内部被曝する確立は大人より高いというリスクも併せてきちんとコメントすべきだったのではないか。
そんなのは、朝のワイドショー的な番組には相応しくないのかもしれないという判断だったのかもしれないが、楽しいことだけでなく、状況が状況なのだからそれに伴うリスクもきちんと情報提供することは、報道機関の説明責任として、絶対に必要だったと思うのだ。

こういう番組を見るたび、僕は胸が締め付けられそうな気持ちになる。
今、原発からの危険区域として国が定めたところ以外には、公の場で危険性に関して声をあげることはタブー視されるような空気があるのを感じる。だからこそ後藤の発言は重く、意味があるのだ。僕は彼の態度に最大限の敬意を表する。客を集めるのが前提である出演者の立場で、こういう発言することがどれだけ勇気のいることか…。

大人ならかまわない。大人ならリスクを自分で考え、自己責任で自分の行動を判断できるのだから…。しかし、大人に連れて来られた子供は、自分の意思でそこにいるわけではないのだ。子供の安全は、大人とは完全に分けて考えなければならないと思う。
少なくとも、勢揃いしたタレントがこうもにこやかに、量の多少はともかく、明らかに放射性物質が存在している場所を“家族向けのフェス”なんて言うのは一体どうなんだ?結果的に、これは内部被曝の可能性のある所への子供たちの参加を積極的に誘っているようなものではないか。これを朝の全国ネットで流すって…。これが報道機関としてのあるべき姿なんだろうか?

愕然としてしまった。激しく怒りを感じる。

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2011年8月 3日 (水)

あるミュージシャンの日記

http://6109.jp/akg_gotch/

正直言って、ASIAN KUNG-FU GENERATIONというバンドには全く興味がないが、後藤正文という男の誠実さには胸を打たれた。
後藤の発言は、メジャーに属するミュージシャンとしてはギリギリのところなのではないか。彼は、開催地の放射線量に対する判断は参加者個々に任せるとした上で、子どもと妊婦に関しては明らかな危惧を表明し、できれば参加を控えて欲しいと言い切っている。国の決めた基準値に対して、静かに異議申し立てをしているのだ。
発言にどんな反響があったのかも想像が付く。また、そういった反響がくることも、恐らく彼は最初から予想していたのではないだろうか。それでも彼は一人の人間として言わずにはいられなかったのだと思う。

ミュージシャンは、なんでも自由にものが言える人たちだと思われがちだが、実際は社会的な発言をするには大きなリスクが伴ってくる。そのリスクはメジャーであればあるほど、大きくもあるのだろう。

ある人に聞いた話。あるメジャーなミュージシャンがライブで得た収益の一部を東日本大震災に対する被災地への寄付に当てることにした。そのミュージシャンは、寄付の金額に加え、コンサートの収支をすべて公表し、どれだけ必要経費がかかり、そこからどれだけの額を差し引いて寄付したのか、その内訳まできちんと発表したという。
これは、集めたお金の使途をガラス張りにするために、一般的には当然行われるべき行為とみなされるはず。ところが、これがちょっと問題になったらしい。何が問題なのか具体的に書くことはあえて控えさせていただくが、要は業界は業界のムラ社会として守らなければならないものがあるらしいのだ。

たかが寄付(あえてそういう言い方をするが)だけでも、これだけのリスクがある。音楽業界ってのは、僕らが想像する以上に保守的な世界だと思っておいたほうがいいのかもしれない。まして、原発関連に関する発言などしようものなら、いったいどれだけのリスクを背負いこむことになるのか…。
僕は別に“ミュージシャンは誰もが何らかの意思表示をすべきだ”などと言うつもりはない(そんなことはとっくにあきらめている)。しかし、心あるメジャーな人間が、例えば後藤のような立場にある人間がこういった発言をすることにはとても大きな意味があると思う。

若い頃、僕はロックは自由を歌う音楽だと思っていた。でも、大人になって、それは幻想なのかもしれないとも思うようになってしまっていた。日本のロックミュージシャンなんて、籠の中だけで自由という名の歌を勇ましく歌っているだけのカナリアなのかもしれないと…。
だが、それでも僕はあきらめ切れなかったのだ。ロックはただ音がデカくて勇ましい言葉をシャウトするだけの音楽なんかじゃない。ロックはなによりも自由を、そして“ほんとうのこと”を歌う音楽であるべきだと思う。逆の言い方をすれば、だからこそ僕らは忌野清志郎という表現者に惹かれたのではなかったのか…。
清志郎がいない今、コマーシャリズムにまみれているとばかり思っていたメジャー側に、こんな誠実な発言をするヤツがいた。そこに僕は胸を打たれ、大きく勇気付けられたのだ。

※このエントリーは8/3にエントリーしましたが、その後、関係各所への影響を考慮し、8/4に若干の修正を加えています。

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2011年8月 1日 (月)

干上がったイカ(苦笑)

このところ、音楽ネタ以外は原発事故関連のことばかり書いてるんで、たまにはランニングのことでも書いてみようか。

今年のメインレースは11月27日のつくばマラソン。初のフルマラソンへの挑戦だ。
本当は今年の春にフルを一本走る予定だったんだけど、東日本大震災の影響で大会が中止になってしまった。これで気持ちが萎えてしまい、今年の春はあまり走りこめていない。というより、春ごろは日本がこんな大変な時にランニングなんかやってていいんだろうかという後ろめたさがあった。走れるだけの体力があるのなら被災地に行って瓦礫の一つでも運ぶべきなんじゃないだろうかと思ってしまったり、その頃は東京でも放射性物質がたくさん飛び交っていたから、ランニングをするのに身の危険を感じたりもしていたのだ。

だけど、やっぱりダメなんだよな、走らないと。
走らないで空いた時間は、結局ぼーっとテレビなんか見て過ごしてしまう。そうすると、テレビってのはほんとにくだらない番組ばっかりでうんざりしてしまう。かといって、今度はネットを見てもネガティブな情報ばかり目に留まる。もう自分の中に負の感情がどんどんどんどん溜まっていって、つい酒に逃げたりすることになってしまうのだ。鬱々とした感情はいつまで経っても身体から出て行かない。

改めて気が付いた。僕にとって、走る時間は身体と心の不純物を浄化できる貴重な瞬間だったのだ。それからは徐々にランを再開したんだけど、6月に入ると今度は腹部にあった粉瘤腫が悪化。なんか悪い菌が入っちゃったみたいで、腫瘍が腫れて化膿してしまい、痛くてたまらない。結局、皮膚科で切開するハメになってしまった。これ、何が原因だったのかいまだにわからないんだけど、春先のストレスと無関係ではないように思う。切った後も抗生物質を処方され、膿が出なくなるまでランニングは禁止。こいつが予想以上に治りが遅く、傷がふさがるまで1ヶ月もかかってしまったのだ。

ようやく走れるようになったのが、7月の中旬。春にあまり走りこめなかった上、1ヶ月近いブランク。本格的に走り始めて以来、こんなにブランクが長かったのははじめてだ。
ラン再開初日の苦しさを僕は忘れることができない。いや~キツイ、キツイ…(苦笑)。息は上がる。足は動かない。まるで干上がったイカだ(苦笑)。これまでの貯金を完全に失ってしまった。

あれから約3週間。週4,5日のペースで走り続け、身体はようやく元に戻りつつある。昨日は1キロ6分30秒ぐらいのゆったりしたペースで皇居4周、20キロをそれほどグダグダにならずに走り切れた。やっとLSDができるところまで戻ってきたということだ。まだスピード練習はあまりできないんだけど、夏の間まめに走り続ければ、秋風が吹く頃にはもう少し追い込めるかな、と思っている。

それにしても、身体は正直だなあ…。これだけ空白期間を空けると、せっかく作った足も元に戻ってしまうということを、嫌というほど思い知らされた。焦る気持ちはあるが、あんまり無理して故障しちゃっては元も子もない。じっくり走って足を作り直そうと思う。

暑い季節に走りこむのは辛い。でも、夏の走り込みは絶対秋に活きてくる。それは去年のハーフマラソン挑戦でも身をもって経験した。
まだ4ヶ月あるのだ。必ず42.195キロを走り抜いてみせる。男45歳。まだまだ負けるわけにはいかないのだ。

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