一人だけの帰省
明日から3日ほど帰省する。いつもは家族を連れてにぎやかに里帰りし、両親に孫の顔を見せていたのだが、今年は僕一人だ。理由は言うまでもない。子供への放射線の影響が心配だから。
僕の実家は福島県白河市。福島県の中では原発からだいぶ離れている地域なのだが、放射線量は通常より明らかに高い値が続いている。先月、福島県で最初にセシウムが検出された肉牛も、3.11以降に白河市から買い取られた稲藁を食べていたとされている。そんな町に家族を連れて帰るのは、さすがに躊躇ってしまう。
しかし、これが実家にはなかなか言い出せなかったのだ。年老いた両親にとって、孫の顔を見るのは何よりの楽しみ。そんな気持ちが痛いほどわかっているだけに、数日間帰省するだけなら大丈夫なのではないかと思い込みたくもなってしまう。だが、子供の内部被曝へのリスクは大人の数十倍という説もあり、10年・20年後に“あの夏、福島に帰ってなければ…”と後悔するようなことだけはしたくない。
様々な思いが逡巡し、ずるずると結論を先延ばししていた。そんな矢先、電話があったのだ。
「今年は無理するな。帰ってこなくていい」
父からだった。なかなか言い出せずにいたことを先回りして言ってくれたのだ。たぶん、父は僕が悩んでいることを察していたのだろう。正直に言うと、気持ちがぐっと楽になった。だが、父の胸のうちを思うと胸が痛む。誰よりも孫の成長を自分の目で確かめるのを楽しみにしていただろうに…。せめてもの慰みに、僕だけでも福島に帰ろうと決めた。
僕の父は、今はリタイアして田舎で静かに暮らしているが、現役時代は地方公務員として福島県庁に勤めていた。とりわけ農政部(今は名前が違うのかもしれないが…)に配属されていた当時の姿が印象深い。福島県は農業・漁業・畜産といった第一次産業に従事する人たちの割合が多く、農政部は県の農業政策を立案するところだから、県庁の中でも重要な部局だったのだと思う。父は県内をあちこち飛び回り、農家や猟師の人たちと様々な折衝をしていた。国との調整役を命じられて東京へ出張してくる機会も多く、僕の学生時代には新橋あたりで父と落ち合い、一緒に酒を飲んだ事もあったっけ。
そんな父だから、今回の震災と原発事故で福島の第一次産業が壊滅的な打撃を受けていることに心を痛めていることが、僕には痛いほどわかるのだ。
震災以降、父の様子が気になって電話をかける回数が増えたが、そんな時、父は自分のことよりも先に必ずこう言う。
「どうなっちゃうのかねえ、福島は…。」
その声を聞くのが、僕には本当に辛い。
恐らく、父が生きているうちに美しい福島が戻ってくることはないだろう。戦後の高度経済成長期を、ひたすら県民のために働いてきた父。今になって、ようやく静かな暮らしができるようになった矢先にこの原発事故だ…。一心不乱に働いてきた挙句のこの結末は、あまりに残酷だ。
僕には、年老いた父の姿が先日テレビで見た細野晴臣の姿と重なって見える。
細野さんは終戦の2年後に生まれているから、昭和12年生まれの父とは一回りも年が違うが、二人ともアメリカの影響を強く受け、日本の高度経済成長期を突っ走ってきた世代。細野さんは番組でこう言っていた。「僕の原点はやっぱり戦後。敗戦ってこと。そういう中から生まれてきた。僕もそうだし、僕の音楽もそうですよね…」。細野さんたちが作り上げ、今僕らが聴いている“日本のロック”は、もともとここにあったものではないのだ。アメリカの芳醇な文化への憧れが、形を変えて進化してきたものなのである。
同じように、父も高度経済成長期の日本において、ひたすら豊かな未来を夢見て邁進してきた。戦争を経験している父の世代の頭の中には、豊かな未来像の一つのイメージとして、ホームドラマに出てくるようなアメリカの姿があったのではないか。戦後の日本の復興のパワーは、戦前の日本に戻るだけではなく、“アメリカに追いつけ追い越せ”という意識があったからこそ実現できたのではないかと僕は思う。
そして日本はアメリカの開発した原発を選択した。国土が狭く資源がない日本にとって、経済でアメリカと肩を並べようと思った時、これしか選びようがなかったのだと思う。その影には第5福竜丸事件や、米ソの核実験による放射能の雨などもあったはずなのに、日本はアメリカへの憧れ、豊かさへの乾きを遂に抑えることができなかった。よく考えればその危険性は誰にでもわかったはずなのに、誰も現実を直視しようとはせず官民一体でアメリカの援助を受け、2011年3月11日まで、ただひたすら突っ走ってきた。
父も細野さんも、そんな自分たち世代の立ち位置のねじれを、今強く感じているのだと思う。
父の世代と、今を生きる若者達の中間にあたる僕らの世代は、これからの社会をいったいどう生きていけばいいのだろう?今年の夏はそんなことをよく考える。
僕は自分を、“上の世代が選択した原発という選択を受け入れ、その甘美な力を享受してきた世代”だと思っている。僕らは高度経済成長期以降の豊かさをたっぷりと味わってきた。そして、自分探しとかなんとか綺麗ごとを言いながら、自分自身をすごく可愛がることのできた世代なのではないだろうか?
もう充分。僕はそろそろ自分の生き方の割り振りを変えていこうと思う。今までが、自分のための部分=90%、次の世代のため=10%だったら、それをそれぞれ60%、40%ぐらいまでシフトできれば…。そして、できれば父がまだ生きているうちに、美しい福島が戻ってくる、そのとっかかりだけでも見せてあげられればいいなあと思う。
今年のお盆は特別なものになりそうだ。
粛々と墓参りをし、年老いた父母とたくさん話をしてこよう。
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コメント
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お盆らしい記事でした。父を亡くした僕にとっても、父が生きていたら、今の時代をどう思うか…?聞いてみたいところです。
戦後のような理想を掲げるのは難しそうだけど、まだ見えぬ新しい理想を掲げ、前に向かう時期にあるのではないでしょうか。
最近“幕末”“戦後”の時代が僕のなかでもキーワードになっていて、その時代物の書物を読みふけっています。
その中から何か見えて来るだろうか?
その中から次の豊かさや時代像が見えてくるだろうか…??
投稿: 樹木 | 2011年8月14日 (日) 23:33
すいません、とても感動しました。
自分もまさにそういう世代で。
よんで感動しました。
どうもありがとうございました。
投稿: sugar seven | 2011年8月18日 (木) 20:45
◆樹木さん
レスが遅れて申し訳ありません。
実は、うちも昨年末から“幕末”がブームになってまして、長男ともどもそっち方面の漫画やテレビなどを良く見ています。志士達って、今振り返ると驚くほど若いですよね。そんな人たちが自己を犠牲にして未来の日本のために奔走した。そんな事実を知るたび、僕らの時代もどんな困難があるにせよ、志をもって生きていけば少しづつでも変わっていくんじゃないでしょうか。
もう今は、泣いていたって、怖がっていたってしょうがない。小さなことでも、とにかく何かをしなければならない。そういう時期だと思います。
投稿: Y.HAGA | 2011年8月19日 (金) 11:23
◆sugar sevenさん
レスが遅れて申し訳ありません。
最近、世代とし何処へ歩いていくべきかなんてことを良く考えます。振り返ってみると、僕らはそういうことをあまり考えてこなかった世代なのではないかと思ったりもします。
でも、今の若者なんか、ある意味では僕達の時よりずっとシビアな青春時代を送ってるように感じるんですよね。そんな下のジェネレーションに僕らから何が渡せるのかわかりませんけど、それを考え続けることって大事なことのような気がしてます。
投稿: Y.HAGA | 2011年8月20日 (土) 12:02