日常と非日常
斉藤和義の新譜、エアロスミスの来日公演、ストーンズ全盛期のライブ映像、そして麗蘭・CHABO、リクオのライブ…。今になって、ようやく音楽が自分の暮らしに戻ってきた。
何度も書くようだが、3.11以降、僕は音楽に関して不感症になりかけていたのだ。もう、何を聴いても音が身体に入ってこない。特に日本語で丁寧に書かれた歌ほど、聴いているうちに虚しい気持ちになり、聴き続けることができなくなっていた。歌なんかより、脳髄が痺れるような音が欲しかった。今年の夏は、まるでエレキギターに目覚めた中学生のように、レッチリやU2を爆音で聞く日々をおくった。
原発事故はまだ全然落ち着いていないが、僕自身はようやく前のように音楽に向かえるようになりつつある。だが、それでも3.11以降、それまでとは決定的に違ってしまった感覚が自分の中に生まれてしまったことを自覚しないわけにはいかないのだ。
特にライブに対する気持ちの変化は大きい。音楽好きにとって、かつてライブは非日常をもたらすものだったのではないだろうか。フェスなんかその際たるもので、逃避と言われようとなんだろうと、そこでひととき桃源郷のような時間が過ごせればそれでいいとみんなが思っていたはず。
それが、3.11以降逆転してしまった。非日常であったはずのライブ空間のほうがかつての日常に近く、今僕らの生きる世界はまるで悪夢のよう。放射能汚染とこの国の負の象徴であるかのような原発は、下手すると僕らの平穏な日常なんか簡単に終わってしまうという脆い現実を見せつけた。
今、重苦しい空気が、まるでカフカの小説のように日常を浸食し尽くしている。今、僕は時々音楽が日常なのか、日常が音楽化してしまったのかわかなくなるような感覚に囚われてしまうことがある。当たり前だが、音楽にははじまりと終わりがある。今はそれがなんだか怖いのだ。音が止むと、まるで日常が終わってしまうような気がして不安になる。この前のリクオのソロライブ、彼はその場から離れるのを惜しむように長いアンコールを続けた。“ああ、リクオも同じ気持ちを抱いているんだな”と、僕は思った。
日常が音楽化してしまった今、きっと音楽は変わっていくだろう。ミュージシャンや意識的なリスナーは、もはや3.11以降の世界には戻れなくなってしまったことを自覚しているはず。
具体的に言うと、僕は今、無性に長い音楽を聴きたい。終わりが無いぐらいに長く濃く、その存在感だけで不毛な現実なんかぶっ飛ばしてしまうような音楽…。僕がもしミュージシャンだったら、今なら絶対そんな音を出すはずだ。
70年代の白人ブルースバンドやプログレッシブロックと呼ばれたグループが、当時延々インプロビゼーションを繰り広げた気持ちが、今になってやっとわかったような気がしている。
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