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2012年7月 2日 (月)

あるミュージシャンの逡巡

このところ更新のなかったリクオのブログ、KIMAGURE DIARYが3か月ぶりに更新された。その内容は、主にできたばかりの新曲に関するものだったのだが、とても重く考えさせられる内容だった。

この曲はまだライブでしか公開されておらず、僕自身まだ未聴。タイトルは「アリガトウ サヨウナラ 原子力発電所」という…。
リクオがこういう曲を歌うのは、ある意味衝撃的なことなのだ。こういった直接的な物言いは、彼がこれまで作ってきた歌の流れからは明らかに異質。もともとリクオは社会的なメッセージを歌うミュージシャンではない。むしろ賛成・反対というような、物事を二択で割り切る考え方が歌に入り込むのを極力避けてきた。それが、ここにきて「脱原発」を明確にした新曲を作ったのだ。ブログを読むと、彼は首相官邸前での大飯原発再稼働に抗議するデモにも参加したらしい。これもある意味“らしくない”行動であり、ちょっとした驚きを感じずにはいられない。3.11から1年数か月あまり。彼の中で何かが変わったのだ。

ちょっと僕の話をする。僕は原発事故で自分の故郷を汚された。両親や古い友だちは、いまだにあの町で不安を抱えながら暮らしている。そんなバックボーンがあるから、僕は東京に住む周りの人たちよりも、少しばかり原発に関する嫌悪感が強いことを自覚している。もし、あんなものが故郷になかったら、僕は今年の夏も子供たちを連れて父や母のもとに帰省することができただろう。友人たちは将来の不安に怯えながら子育てをしなくてもよかったはず。そう思うと何ともやり切れない気持ちになるし、野田さんの原発再稼働を表明する記者会見には怒りを覚えずにはいられない。

だが、いわゆる脱原発派と呼ばれる人たちの行動にも、どこか違和感を感じる自分がいる。たとえば、脱原発を唱えるデモに、僕は一度も参加したことがない。主張自体に異議はないが、デモという方法にはどうしても馴染めないものを感じてしまう。僕の知るデモは、何万人もの人間が同じスローガンをコールするイメージだ。デモに限らず、そういう集団行動が僕にはどうも苦手だ。
思い返せば、学生時代に母校の野球の応援に行った時にも、同級生がスタンドで肩を組んで校歌を大合唱しているのを見て思わず引いてしまった。倫理美化運動なんてのも大嫌いだったなあ。本当に町を綺麗にしたいと思うなら、一人ひとりが日ごろからゴミを拾って歩けばいいだけの話なのに、なぜわざわざ日にちを決めてイベントみたいことをしなければならないのか…。そういうワクを作らないと行動できないってのは、どっか違うような気がする。今だって、ライブで観客が一斉にコブシを振り上げたりするのは大嫌いだ。自然とそうなるならいいが、それぞれがそれぞれの楽しみ方をするのがライブなのに、何がわざわざ決まり事を作って皆で同じことをしなければならないんだろう?

要するに、僕は自分が何かの派閥や集団に属したり、ああいう奴だとレッテルを貼られるのがたまらなく嫌なのだ。失礼なことを言うようだけど、そういうのが好きな人は、集団に属すること自体で満足感を味わえる人種なんだと思っていた。青臭いことを言うようだけど、ロックな精神ってのは「自立」とか「個」とイコール。そこに集団行動はどうにもそぐわない。単なるひねくれ者の意見かもしれないが、僕はそう思っていたのだ。

だが、3.11以降、そんなひねくれ者の居場所はだんだん無くなってきた。世論は人を原発推進か脱原発かの二色に分けたがり、脱原発を唱える人の中にも、沈黙は罪だ、今は何らかの形で行動しなければ意味がないというようなことを言う人が出始めた。そこには、福島にたくさんの知人がいるというのに、彼らに対して“福島を出ろ”とはどうしても言えないでいる僕を責めた知人の声と同質の圧力を感じる。彼らは正義なのだ。正論を述べているのだ。だけど、それを強要するのは、ある種の傲慢さと紙一重だと僕は思う。彼らに悪気がないことはわかるが、悪気がないだけに、よけい隔たりの大きさを感じてしまう。3.11以降、そんな場面に接するたびに僕は疎外感を感じていた。

正直に言う。僕にとっては大飯原発再稼働よりも、傷付いた故郷の今の方がずっと切実な問題なのだ。2つの問題が根っこで繋がってるのはわかるけど、大飯原発再稼働反対を唱えるデモに参加する時間があるぐらいなら福島に帰って年老いた両親や旧友の傍に寄り添いたい。それが僕の偽らざる気持ちだ。僕はそんな自分の感情に正直に行動したい。
ただ、今は好きとか嫌いとか、そんなことを言っている段階ではないのかもしれないとも思い始めている。福島出身者である前に、日本に生きる一市民として、原発に依存しない社会を創るため、好む好まざるにかかわらず、何らかの行動をとらなければならない時期に来たのかもしれない…。そんな思いもあるのだ。

そんなときに目にしたのがリクオのブログだった。
3.11から1年数か月あまりの時間をかけ、リクオは「アリガトウ サヨウナラ 原子力発電所」に辿り着いた。それは、同じ反原発をテーマにした歌であっても、忌野清志郎や斉藤和義のそれとは明らかに違った逡巡を経て生み出されたものだ。ブログを読めばわかるように、彼は3.11以降、悩み、苦しみ、傷付きながら歌を歌い続けてきた。その道程は、もちろん僕とは違うものだけれど、3.11以降、新しい生き方を探し、もがき続けてきた部分にある種のシンパシーを感じずにはいられなかった。

リクオは言う。悶々としながら問いかけを続けてゆく作業を止めてはいけないと。そして、デモや集会は2項対立を深める要素を持っており、時として何かを損なう可能性を内包していることを知りつつも、時間が許せばまた参加したいと。ここに至るまで、リクオは相当の逡巡を経たに違いない。そして、最終的に彼は、日記にもあるとおり「変わらない」ことよりも「変わる」ことを選択したのだ。

ならば、と僕も思った。リクオの言うように、変容しつつあるデモの形が、時代を変えようとするエネルギーの渦であるならば、その場に身を置いてみるのも悪くはないかな、と。ただ、フットワークは軽く、あくまでも自分の気持ちに正直であることを前提としてだ。無理はしない。時間があっても気分が乗らなかったら、参加は止めるし、居心地が悪かったらさっさと帰る。そのぐらいの気持ちでい続けたいと僕は思う。

3.11以降、僕は巨大な迷路の中に入り込んでしまった。そして、いまだに出口は見えずに彷徨い続けている。何が正しくて、何が間違っているのかなんて誰にもわからない。でも、安易に大きな集団に属してしまっても、自分を救うことはできないのだ。漂い、時には自分の正義を疑いながら生き続ける。不安の雲が消えることはないし、たぶんそれは一生消えないかもしれないが、3.11以降の新しい生き方は、そうやって見つけていくしかないのではないか。新曲の誕生に至るまでのリクオの道程は、そんなことを語っているように僕は思った。

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コメント

ボクもデモに対してはHAGAさんと同じイメージでした。
大声で政府を非難して「恥を知れ!」って書いたプラカード
を掲げてこれで何が変わるのか?疑問だらけでした。
群集で行動を共にするのはボクも大嫌い。
ボランティアみたいに被災地が前に進む活動は大勢でやる
意味があるけどデモに関しては意義を見出せませんでした。
でもアジカン後藤正文クンと官邸前デモ主宰者(若い!)
との対談を読んでデモに対する先入観が薄れました。
http://www.thefuturetimes.jp/archive/no02/demo/

リクオの決断重いですね。ボクは彼の「二項対立に組しない」
姿勢が大好きで見習ってきました。その彼が反原発ソングを
歌う。相当な逡巡があったんだと思います。

野田さんは簡単に再稼動を決める。電力会社も変わろうとしない。
国民投票もアッサリ無視された。
ホントは首相、官僚、電力会社、自治体、企業、一般市民で
冷静に意見交換してエネルギーの有り方、原発の有り方を
話し合って決めたい。
でも、そんな機会は無さそうだ。次の選挙なんて待ってられない。
なら市民が意志表示するためにはデモしか無いのかなぁ。
うーん、他の手段を探りたい気もするんですが。

参加もしないで一方的にデモを否定するのはいけないと思うので
そのうち実際にデモに参加してしようと思います。

唯、そういう活動は被害を受けてない元気な東京人や関西人が
すればイイと思います。
HAGAさんは福島のご家族を優先で行動してください。
何より優先すべきは傷ついた東北の支援と思うので。

◆ながわさん
たぶん、ながわさんもリクオも僕も、集団で事を起こすようなことは苦手なタイプだと思うんです(一方的に決めつけちゃってゴメンなさい)。っていうか、ロックなんてもともと個の自由を求める表現形態なんですから、こういう音楽が好きな人はもともとデモとかに喜んで出るような体質じゃないと思うんですよ(苦笑)。
でも、同時に今の現状に対する疑問を抱かずにはいられない。個人の嗜好とそことの葛藤に悩んでしまう。リクオも悩んだ末にこういう結論を出したんだと思います。

僕は様々な迂回を経てここまで辿り着いたリクオにとても共感します。この行動がこれまで彼がやってきた姿勢と相反することも十分にわかってるはず。それでも、あえてやったという…。やらざるを得ない感情のうねりがあったんでしょう。

僕も何か最近は空気の流れが変わったような気配を感じます。その直感に確信が持てた時、デモに出るかもしれません。
ただ、当たり前ですが反原発を表明する行動=デモじゃないと思うんですよね。素人が放射線量を図ってアップするようなことも、どこまでその値に責任が持てるのかと思うと、とても重い行為を行っているなあ~と思ったりします。

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