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2012年10月 1日 (月)

近頃おいらはツェッペリン ~その2~

えーと、この前書いたレッド・ツェッペリン話の続きです。

そもそも僕は、なんで2012年の今頃になって、ツェッペリンに熱を上げているのだろう?
それは、このバンドのアルバムを聴いていると“ロックは進化するもの”という、今ではほとんど忘れられている概念を思い出すからだ。
今の若い人たちに言ってもピンと来ないかもしれないけど、80年代初めぐらいまで、ロックってのは最先端の文化を反映したものという意識があった。ファンもミュージシャンも、ロックバンドってのはアルバムを重ねるごとに変わっていくのが当たり前だと思っていたのである。プログレッシブ・ロックなんていう言葉があるけど、僕に言わせれば、70年代以降に出てきた優れたロックバンドは、多かれ少なかれみんな実験的で前衛的だ。だいたい、ブルースやR&Bなどをルーツにして出てきたロックだけど、そこに安住してると保守的だと叩かれたんだから、昔は。新しい試みにトライしているバンドこそ評価が高く、ブルースをただ基本に忠実に演ってるだけでは、ロックバンドとしては物足りないと思われていたのだ。
みんな忘れてるみたいだから言いますけどね(笑)、80年代初めまでは、ローリング・ストーンズなんて無茶苦茶保守的なバンドと言われていて、今よりずっと評価が低かったのだ。

ところが、90年代初めからそういう流れがだんだん変わってきた。一言でいうと“進化”より“深化”が重んじられるようになってきた。表面的な音の変化より、音の完成度が評価されるようになってきたと言い換えてもいいかな。
こうなったのには、いろいろな理由があるんだろうけど、僕が思うに、ロックがあまりにも細分化されて難しくなっちゃったからだと思う。だいたい、新しい試みっていったってだんだんネタが無くなってくる。そのうち、最先端と呼ばれるロックは、インダストリアルとかアンビエントとか、根暗で難解なものになってしまった。いわゆる頭で聴く音楽ですな。最初は僕も三毛に皺を寄せながら、一生懸命こういうのに馴染もうとしたけど、ロック本来の楽しさがあんまり感じられないから、早々に放り投げてしまった。ルーツ帰りした骨太なロックが脚光を浴びるようになったのは、そうしたことへの反動ではないかとワタシは思うのですよ。

加えて、CDの普及に伴う旧譜のデジタル化ラッシュ。これは名盤と呼ばれるアルバムにもう一度光を当てる機会になったのではないか。タイミングよく(?)ロックファン自体が高齢化してきて、僕みたいにいい加減新しいバンドを追いかけるのも疲れたから、昔のやつを良い音で聴いてりゃいいやと思うロックファンが増えたのも大きいだろうな、きっと。

ま、今もだいたいロックシーンはこういう空気でしょ。それはそれでいいんです。
でも、実は昨年あるバンドを聴いて、昔の“ロック進化論”が、僕から完全には抜け切っていないことに気付かされてしまったのだ。
そのバンドはですね、今さらって言われちゃうかもしれませんが、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(笑)。ほんとはとっくに気が付いてなきゃいけなかったんですが、彼らがブレイクした頃はちょうど新しいバンドを追いかけなくなった時代だったからなあ…。
レッチリを聴き出したのは、実は震災が大きく影響している。あの震災のショックで、僕はちょっと音楽不感症になりかかってしまった。精神的な動揺が大きすぎ、何を聴いてものめりこめない。でも、音は欲しかった。それも中途半端なビートではなく、身も心も焦がしてしまうような強烈にリアルな世界観で僕を叩きのめしてしまうような音が欲しかった。結果辿り着いたのが、レッチリとU2だったんだな、これが。

当たり前だけど、U2とレッチリは全然やってる音楽が違う。でも、僕はこの2バンドに共通すものを感じた。それは、このバンドにしかない圧倒的にオリジナルな音世界を持っているということと、アルバムごとに常に変わろうとする姿勢だ。こういうニオイが感じられるロックバンドは、今本当に少ない。
レッチリのアルバムなんて、一曲一曲、これでもかと言うぐらいにアイディアが詰まっていて驚いてしまう。テクも凄いのに、本人たちはずっと馬鹿キャラのまま(笑)。この開き直りには凄みすら感じてしまう。

えーと、なかなかツェッペリンの話が出てきませんが(苦笑)、僕はレッド・ホット・チリ・ペッパーズの一連のアルバムを聴いていて、無性にレッド・ツェッペリンが聴きたくなってしまったのだ。彼らはツェッペリンに影響を受けていることを公言しているから、単純に似てるってこともあるんだけど、それ以上に共通している感覚がある。それは“ある種の強引さ”だ。どんな音楽ジャンルであろうとレッチリ流のファンクに仕立てる強引さ、どんな音楽ジャンルであろうとツェッペリン流ハードロックに仕立てる強引さ。これです。

たとえばですね、レッド・ツェッペリンの楽曲で「デジャ・メイク・ハー」というのがある。これ、レゲエの影響大な曲なんだけど、普通のバンドはこういうアプローチはしないと思うんだ。もう少し向こうの領域に足を踏み入れて演奏するのが普通ではないか。でも、彼らはそんなことは全く考えてない。そういうやり方は彼らの考えるロックではないからだ。レゲエを演奏するのではなく、レゲエをちょろまかす(笑)。向こうの服を借りてなりきったふりをするのではなく、向こうの食べ物をたらふく食べて、強引に自分の嗜好を変えていくのだ。
結果、ボンゾのドラムはいつも以上にデカく響き渡り、ジミーのとぼけた音色のギターが不思議なタイミングで絡む一品が出来上がった。こういうヘンタイ度が高いロックが、僕はたまらなく好きだ。

あんまり強引だから、時として破綻ギリギリのものもあるけど、そもそもロックってこういう強引で不完全なものだったんじゃないだろうか。
音の古い・新しいはあるかもしれないが、こういう姿勢は時代と全く関係なく色あせない。レッド・ツェッペリンの無邪気なまでの強引さは、ある種のミュージシャンシップの極みではないだろうか?こういうバンドは、今はもちろん、70年代まで遡っても本当に少ないと僕は思うのだ。

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