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2012年10月

2012年10月 6日 (土)

「MAGICAL CHAIN CARAVAN vol.3」MAGICAL CHAIN CLUB BAND(リクオ/ウルフルケイスケ/寺岡信芳/小宮山純平)/2012年10月6日(土) 下北沢 CLUB Que

2012年10月6日(土) 下北沢 CLUB Que
"CLUB Que shimokitazawa 「新夜想曲第十八番・ウタゲアリキ」 No.18 anniversary"
「MAGICAL CHAIN CARAVAN vol.3」
【出演】MAGICAL CHAIN CLUB BAND(リクオ/ウルフルケイスケ/寺岡信芳/小宮山純平)
前¥3500 当¥4000(1ドリンク別オーダー) 開場18:30 開演19:00

うん、このバンドはいいかも!
実を言うと、僕は長い間リクオとウルフルケイスケとの組み合わせが、どうもしっくりしなかったのだ。二人の色が違っていて、特にリクオの良さが薄まっちゃうような気がして…。だけどこの夜のライブで、やっとなぜこの二人がバンドを組んだのかわかったような気がした。二人の気質は違っているようでよく似ているのだ。そして、お互いがお互いの長所を巧くシェアし合っているように思う。かくして、ともすれば鬱々としがちなリクオの楽曲には明るさが加わり、ウルフルケイスケの楽曲もR&R一本やりではなく、様々な陰影が付くようになった。

そのシェアぶりは、バンドという飛び道具を手に入れたおかげで、なおいっそう鮮やかになったと思う。他の二人、寺岡信芳と小宮山純平のリズム隊は、もう何年も一緒にやっているかのように息がぴったりだった。それに触発されたかのように、ケイヤンのギターはリクオと二人だけの時よりずっと手数が多くなっている。寺さんと何年も一緒にやっているリクオのハジケぶりはいわずもがなだ。たとえばCHABOの隣には早川岳晴のべースが欠かせないように、リクオにとってバンドで音を出す際には、今や寺さんの存在はなくてはならないものになっている。
客席から期せずして“完璧すぎるやん!”という声がかかったように、これはもうベテランバンドの領域に入っているぐらいの完成度だった。

それにしてもマジカル・チェイン・クラブ・バンド、楽曲がすごくいいなあ~。この日はリクオとウルフルケイスケそれぞれの定番曲と、10月25日発売のこのバンドの1stアルバムの曲が全曲演奏されたんだけど、この新曲たちがほんとに素晴らしくて強く印象に残った。
リクオが作った「不思議な人よ」なんてのは、ソロではなかなか出来なかったタイプの曲だと思う。この曲をはじめ、そのものずばりの「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」など、このアルバムには3.11後の世界観が色濃く出ているものがいくつかあるが、もし同じテーマをソロでリクオがやったなら、たぶんそれはもう少しシリアスな味の濃いものとなったのではないだろうか。へヴィーな現実をR&Rで吹き飛ばす。そうだよなあ、高校生の頃の鬱々とした時期、僕がR&Rに魅かれたのも、こんなポジティブなタッチにやられたからだったんだよなあ…。ふとそんな気持ちを思い出した。

とにかく、このバンドはこれからの転がり方が楽しみだ。もう、フェスなんかにもこれでガンガン出ればいいのに。陽気なビートで、不思議な人たちを笑い飛ばしてやってくれよ!

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2012年10月 4日 (木)

R.I.P. 島田和夫さん

若かった頃、ミュージシャンや作家といった人たちは、自由人の象徴だと思っていた。
大人になるにつれ、人は誰もが夢と現実に折り合いをつけ、決められた器の大きさに自分の身を合わせるような生き方をせざる得なくなっていく。そんな生き方に少し疲れた時、昔と変わらない笑みを浮かべて飄々と生きている自由人たちの存在は、それだけで僕にとってある種の励ましになっていたのだ。

だから、こういった報せを聞くのは辛い。すごく辛い…。それは、自由の旗のもとに生き続けたセンパイが、最後はこういう結末を選ばざるを得なかったということになってしまうのだから…。

今日はCHABOの「プレゼント」を繰り返し聴いている。
一瞬の流れ星は、あっけない輝きでしかなくても、瞬間の煌めきはずっと心に残る。結局、僕らはその煌めきの一つひとつを大事に繋ぎながら生きていくしかないのかもしれない。
自由ってなんだろう?本当の自由ってのは、僕ら自身が僕ら自身のそれぞれの暮らしの中で見つけていくしかないものなのかもしれないと、今思う。

島田さん、島田さんにとっての自由って何だったのですか?
生き続けて欲しかった。どんなカタチでもよかったら、生きていて欲しかった…。
悲しいよ。

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2012年10月 1日 (月)

近頃おいらはツェッペリン ~その2~

えーと、この前書いたレッド・ツェッペリン話の続きです。

そもそも僕は、なんで2012年の今頃になって、ツェッペリンに熱を上げているのだろう?
それは、このバンドのアルバムを聴いていると“ロックは進化するもの”という、今ではほとんど忘れられている概念を思い出すからだ。
今の若い人たちに言ってもピンと来ないかもしれないけど、80年代初めぐらいまで、ロックってのは最先端の文化を反映したものという意識があった。ファンもミュージシャンも、ロックバンドってのはアルバムを重ねるごとに変わっていくのが当たり前だと思っていたのである。プログレッシブ・ロックなんていう言葉があるけど、僕に言わせれば、70年代以降に出てきた優れたロックバンドは、多かれ少なかれみんな実験的で前衛的だ。だいたい、ブルースやR&Bなどをルーツにして出てきたロックだけど、そこに安住してると保守的だと叩かれたんだから、昔は。新しい試みにトライしているバンドこそ評価が高く、ブルースをただ基本に忠実に演ってるだけでは、ロックバンドとしては物足りないと思われていたのだ。
みんな忘れてるみたいだから言いますけどね(笑)、80年代初めまでは、ローリング・ストーンズなんて無茶苦茶保守的なバンドと言われていて、今よりずっと評価が低かったのだ。

ところが、90年代初めからそういう流れがだんだん変わってきた。一言でいうと“進化”より“深化”が重んじられるようになってきた。表面的な音の変化より、音の完成度が評価されるようになってきたと言い換えてもいいかな。
こうなったのには、いろいろな理由があるんだろうけど、僕が思うに、ロックがあまりにも細分化されて難しくなっちゃったからだと思う。だいたい、新しい試みっていったってだんだんネタが無くなってくる。そのうち、最先端と呼ばれるロックは、インダストリアルとかアンビエントとか、根暗で難解なものになってしまった。いわゆる頭で聴く音楽ですな。最初は僕も三毛に皺を寄せながら、一生懸命こういうのに馴染もうとしたけど、ロック本来の楽しさがあんまり感じられないから、早々に放り投げてしまった。ルーツ帰りした骨太なロックが脚光を浴びるようになったのは、そうしたことへの反動ではないかとワタシは思うのですよ。

加えて、CDの普及に伴う旧譜のデジタル化ラッシュ。これは名盤と呼ばれるアルバムにもう一度光を当てる機会になったのではないか。タイミングよく(?)ロックファン自体が高齢化してきて、僕みたいにいい加減新しいバンドを追いかけるのも疲れたから、昔のやつを良い音で聴いてりゃいいやと思うロックファンが増えたのも大きいだろうな、きっと。

ま、今もだいたいロックシーンはこういう空気でしょ。それはそれでいいんです。
でも、実は昨年あるバンドを聴いて、昔の“ロック進化論”が、僕から完全には抜け切っていないことに気付かされてしまったのだ。
そのバンドはですね、今さらって言われちゃうかもしれませんが、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(笑)。ほんとはとっくに気が付いてなきゃいけなかったんですが、彼らがブレイクした頃はちょうど新しいバンドを追いかけなくなった時代だったからなあ…。
レッチリを聴き出したのは、実は震災が大きく影響している。あの震災のショックで、僕はちょっと音楽不感症になりかかってしまった。精神的な動揺が大きすぎ、何を聴いてものめりこめない。でも、音は欲しかった。それも中途半端なビートではなく、身も心も焦がしてしまうような強烈にリアルな世界観で僕を叩きのめしてしまうような音が欲しかった。結果辿り着いたのが、レッチリとU2だったんだな、これが。

当たり前だけど、U2とレッチリは全然やってる音楽が違う。でも、僕はこの2バンドに共通すものを感じた。それは、このバンドにしかない圧倒的にオリジナルな音世界を持っているということと、アルバムごとに常に変わろうとする姿勢だ。こういうニオイが感じられるロックバンドは、今本当に少ない。
レッチリのアルバムなんて、一曲一曲、これでもかと言うぐらいにアイディアが詰まっていて驚いてしまう。テクも凄いのに、本人たちはずっと馬鹿キャラのまま(笑)。この開き直りには凄みすら感じてしまう。

えーと、なかなかツェッペリンの話が出てきませんが(苦笑)、僕はレッド・ホット・チリ・ペッパーズの一連のアルバムを聴いていて、無性にレッド・ツェッペリンが聴きたくなってしまったのだ。彼らはツェッペリンに影響を受けていることを公言しているから、単純に似てるってこともあるんだけど、それ以上に共通している感覚がある。それは“ある種の強引さ”だ。どんな音楽ジャンルであろうとレッチリ流のファンクに仕立てる強引さ、どんな音楽ジャンルであろうとツェッペリン流ハードロックに仕立てる強引さ。これです。

たとえばですね、レッド・ツェッペリンの楽曲で「デジャ・メイク・ハー」というのがある。これ、レゲエの影響大な曲なんだけど、普通のバンドはこういうアプローチはしないと思うんだ。もう少し向こうの領域に足を踏み入れて演奏するのが普通ではないか。でも、彼らはそんなことは全く考えてない。そういうやり方は彼らの考えるロックではないからだ。レゲエを演奏するのではなく、レゲエをちょろまかす(笑)。向こうの服を借りてなりきったふりをするのではなく、向こうの食べ物をたらふく食べて、強引に自分の嗜好を変えていくのだ。
結果、ボンゾのドラムはいつも以上にデカく響き渡り、ジミーのとぼけた音色のギターが不思議なタイミングで絡む一品が出来上がった。こういうヘンタイ度が高いロックが、僕はたまらなく好きだ。

あんまり強引だから、時として破綻ギリギリのものもあるけど、そもそもロックってこういう強引で不完全なものだったんじゃないだろうか。
音の古い・新しいはあるかもしれないが、こういう姿勢は時代と全く関係なく色あせない。レッド・ツェッペリンの無邪気なまでの強引さは、ある種のミュージシャンシップの極みではないだろうか?こういうバンドは、今はもちろん、70年代まで遡っても本当に少ないと僕は思うのだ。

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