【映画】 さよなら渓谷
そして一撃必殺のあの目…。瞳の奥に暗い情念の焔がゆらゆら揺れているようなあの目だ…。あれはもう反則だろう(笑)。あんな目で刺されたらオレ、たちまち金縛りだぜ(苦笑)。
ただ、日本映画はこういう作品がどんどん出てこなきゃダメだと思う、オレは。1から10まで説明して観客に迎合してるような作品ばかりじゃ、そんなのテレビの帯ドラマと変わんなくなっちゃうでしょ。
ん~~~。とても残念。これは高村薫の小説が原作なんだけど、その奥深さを半分も表現できていないと思った。
原作はとても長い小説でストーリに絡む人間関係も複雑。まあ、確かにそれを2時間半に落とし込むのは難しかったんだろうとは思うけど、だったら削るところは思い切って削るとかしないと…。おこがましいけど、それをどうやるかってのが監督の手腕なんじゃないだろうか?これはすべてを中途半端にぶち込んじゃったおかげで、終始バタバタした展開になっちゃったように思う。これじゃあ小説を読んでない人には、そもそもなぜ幸田たちがささやかな日常を投げ打ってまで銀行に眠る金塊を強奪しようと思ったのか、さっぱりわかんないだろう。
実は、僕は高村薫の小説が大好きなのだ。
彼女の作品を初めて読んだのは、もう15年ぐらい前だけど「神の火」というやつだった。これはかつて原発技術者でありながらスパイに仕立てたられてしまった男が、足を洗ってささやかな生活を送っていた時に原発襲撃プランを知ってしまい、、幼馴染みと共に諜報戦に巻き込まれてしまうというもの。とにかく、その緻密な構成と人間描写の生々しさに圧倒されてしまい、読み終わった後も三日ぐらい頭から残像が消えなかった。サスペンス小説の体裁をとってはいるけれど、これは純文学の大作にもひけを取らないとマジに思ったぐらいだ。
その後、他の作品にものめりこんだのだが、女史の作品には駄作が一つもない。すべてが代表作と言ってもいいぐらい、どれを読んでも完璧すぎる世界が構築されているのだ。
ただ、緻密で人間関係も細かく設定してあるからこそ、2時間半の制約があるシネマにはなかなか納まりきれない。女史の作品はこれまでにもいくつか映画化されてきたけど、はっきりいってどれも原作の良さを半分も出し切れていない。むしろ、テレビの連続ドラマの方が時間が長い分、丁寧に描かれていたと思う。
ただ、「黄金…」に関しては、あの井筒さんがメガホンをとるっていうんで、だいぶ前から期待してたんだけどなあ…。まあ、女史の小説のスケールのデカさは、鬼才をもってしても抑えきれなかったということなんだろう。
残念ではあったけど、俳優陣は健闘していた。特に、桐谷健太の演じた野田は僕の思う小説のイメージにぴったりだった。彼はこの2,3年ですごく成長していると思う。妻夫木聡もこういうダークな役が無理なくできるようになってきたし。うん、役者人の奮闘ぶりがこの映画の唯一の救いかな…。
きっと、高村女史の作品はこれからも何度となく映画化されていくだろう。いつかは彼女の壮大な世界を完璧に制御できちゃう監督が現れるかな…。そんな日が来るのを僕はじっくりと待ちたい。
この映画は、「ゆれる」「ディア・ドクター」に続く、西川美和監督の長編3作目にあたる。
この女性監督は、人間関係に歪が生じたときの気持ちの揺らぎを表現するのがすごくうまいと思う。観終わった後に爽快感を感じるようなものでは決してないが、いつまでも消えない不思議な余韻があり、観終わってからもしばらくは“いったいあのシーンはどんな意味があったんだろう?”とずっと考えさせられてしまうのだ。前2作で、すっかりこの監督の才能を思い知らされた僕は、3作目のキャストに松たか子と阿部サダヲが選ばれたと聞き、映画の完成をずっと楽しみにしていた。
今回も、脚本は西川監督の完全オリジナル。彼女は3年前にこの構想を思いつき、雑念を取っ払うため広島の実家に引き籠ってホンを書いたそうだ。
松たか子と阿部サダヲが演じる夫婦は、小さいながらも評判のいい小料理屋を経営して幸せな毎日を送っていた。ところが、ある日ふとした火の不始末で店が全焼してしまう。二人はもう一度店を持とうと一から出直すことを決意し、松は近所のラーメン屋で働き始めるのだが、根っからの料理人気質の阿部は、勤める店の先々で問題を起こしてしまい、鬱々とした日々を送ることになる。
そんなある夜、阿部は駅でかつて店の常連だった鈴木砂羽が泥酔しているのと遭遇する。実は鈴木は浮気相手が事故で亡くなり、その弟から手切れ金を渡されたばかりで自暴自棄になっていたのだった。二人はそのまま一夜だけの関係を持ってしまう。翌朝、鈴木は阿部に店の再建の夢を託し、受け取ったばかりの手切れ金を持っていてくれと言い出す。最初は拒絶していた阿部だったが、結局は“必ず返す”と約束して金を受け取ってしまう。
この夜のことはすぐ松にバレてしまうのだが、この時松は阿部の意外な才能に気付くのだ。つまり、これまでは優しいだけが取り柄の冴えない男だと思っていた自分のダンナに、実は詐欺の才能が隠れているのではないかと。適切な相手に最高のタイミングですり寄れば、この人はごくごく普通に振る舞うだけで女心を開かせてしまえる…。かくして、松が糸を引き、阿部が詐欺師を演じる夫婦二人がかりの結婚詐欺が始まってゆくのだ。
この計画、はじめは怖いぐらいにうまくいくのだが、成功する毎に二人の間には微妙なさざ波が立ってゆく。阿部はもともと“できた女房”にコンプレックスを持っていたし、もともと気持ちの優しい男だから、本当は女たちを騙すのに後ろめたさを持っていたんじゃんまいかな…。そして、無理してやってるうちに段々と心の奥に澱が貯まってしまうのだ。松は松で阿部が詐欺にのめり込んでいくにつれ、いつか本気で騙す相手を愛してしまい、いつか自分のもとを去ってしまうのではないかという恐れを抱き始める。
この揺れる二人の心理描写こそ西川監督の真骨頂。っていうか、思うにこの人が映画で描いているテーマは、カタチは違えど3作すべて同じだと思うんだよね。それは、今目の前にある幸せな人間関係も、何か事が起きるとどうなっていくのかわからないってことだ。
「ゆれる」では、一人の女を死なせてしまったことをきっかけに、兄と弟がそれまで隠していた本心を曝け出す。「ディア・ドクター」では、医者として村で尊敬を得ていた男が、ニセ者だとわかったときの人々の反応が淡々と描かれる。今回は、それを詐欺を重ねる夫婦の間と彼らを取り巻く女たちとの間で描いてみせたわけだ。
そして、これも西川さんの得意ワザなんだけど、前2作同様、ラストにいろんな解釈ができるシーンを挟み込んでいるのだ。あんまり詳しく書くとネタバレになっちゃうんで、これ以上の記述は控えるけど、ネットで感想を調べてみたら、案の定、観た人それぞれがいろんな考えを述べていてとても面白かった。
因みに、オレはこのラストシーン、ハッピーエンドだと思ってるんです。ここからはオレ流の解釈なんだけど、実は初めのうちは、二人とも本格的に詐欺を続ける気はなかったんじゃないかと思うんだよね。だって、金を騙し取るたびに、いちいち借用書書かせてんだもん、この二人(苦笑)。つまり、だまし取った金は、一時“借りる”みたいな感覚で、いずれ店が持てたらお金を徐々に返していこうと思っていたんじゃないかと僕は思うんだよなあ…。松にしてみたら、鈴木砂羽と浮気した阿部に対するお仕置きとして、一種の冗談みたいな気持ちで始めたところがあったのかも。
ところが、阿部が詐欺の対象となるべき相手に本気で同情してしまったりするのを見て、いろんなことに気が付いちゃったんだな。まず、自分がいないと何もできないと思っていた夫が、こりゃあ私無しでも十分やっていけちゃうのでは?ということに気付いてしまう(当の阿部は全然そんなこと自覚してないのに…(苦笑))。
詐欺のカモである女性からもいろんなことに気付かされる。まずは、重量挙げでのオリンピック出場を夢見ている女。最初は醜い容姿を上から目線で見てたのに、阿部がその生き方に本気で共感しているのを見て、自分にはこれまで自らの意志で人生を選んだことがないことを思い知らされてしまうのだ。決定的なダメージとなったのは、阿部がカモであるシングルマザーと彼女の一人息子と仲良しになってしまい、まるで家族の一員であるかのように溶け込んでしまったこと。あんなに幸せそうなのに、自分には子供ができない。そもそも阿部と松はセックスレスなのだ…。
詐欺がうまくいく毎に気持ちが離れていくのだけれど、もう一度店を持つという夢が二人の最大の共通項だから、もう引くに引けなくなってしまった。後半はそんなところもあったんじゃないかと僕は思うんだけど。
この詐欺生活は、やがて意外な結末を迎えて終わるんだけど、これで二人はほっとした部分もあったんじゃないかなあ?
阿部は結果的に仲良くなった子供を助けるようなカタチになったし、松は松で自分の生き方を見つけることができた。ラストはそんな暮らしを続けていた松のもとに、やっと阿部が帰ってきた場面だと僕は解釈した。むしろ、ここからが二人にとっての本当のスタートだったんじゃないかって思ったんだけどね。
でも、これはたぶん男と女で見方は大きく違うはずだ。もしかしたら、結婚経験があるかないかでもだいぶ違うかも。
オレ、最初は、これはうちの奥さんと一緒に観て感想を聞きたかったな~って思ったんだ。だけど、すぐに“ああ、独りで観て良かった”と胸を撫で下ろしましたよ。だって、どう考えたって男に分が悪い映画です、コレは(苦笑)。
まあ、どっちもどっちなんだけど、僕はやっぱ松みたいな連れ合いがいたら大変だと思う。そもそも、彼女がそそのかさなかったら、阿部は詐欺なんかしなかっただろう。でも、そんなことうちの奥さんに言ったら、そもそも阿部サダヲが最初から雇われでもなんでもいいから地道に働いていて、鈴木砂羽と浮気なんかしなければ済んだ話じゃない!って言い返されるに違いない。絶対喧嘩になるぞ、これ(苦笑)。
いやあ~今回もいろいろ考えさせてくれました。最初“どうよ?”と思った松たか子と阿部サダヲのコンビも抜群だったし、心理ドラマが好きな人なら絶対面白く観られる映画だと思います。
でもねえ、これはデートには向かないし、まして夫婦で観るなんてとんでもないです。観るなら一人でこそこそ映画館に行ってください(笑)。
2112年現在、僕が未だライブを観たことがなくて、最も見たい人と言えば山下達郎をおいて他にない。この人のコンサート・チケットは、昔からとても競争率が高いことで有名だ。僕も何度かトライしているのだが、全く当たったためしがない(泣)。最近はライブの本数を増やしている達郎氏、周りではけっこう観に行った話を聞くのになあ…。達郎氏に関しては、オレ、よっぽどクジ運が無いらしい。とほほ…(泣)。
この人のライブの素晴らしさは多くの人が語っているところだが、公式発表された映像は一つもなし。その魅力を知るには、実際にコンサート会場に足を運ぶしかないのだ。
アルバムをとおして山下達郎の素晴らしさは解ってるつもりなのだけれど、未だライブ未経験の僕としては、実は山下達郎というミュージシャンの凄さのほんの一部分しか知らないのではないかという後ろめたさがずーっと付きまとっている。そんなわけだから、ライブ映像が劇場公開されるってのは、僕にとってはとてもうれしい驚きだった。絶対観なくちゃ!と思って、鼻息荒く映画館に駆け付けた(笑)。
まだ観ていない人もいるだろうから、内容をあまり詳しく書くのは控える。だけど、一言だけ言わせて。これはとてつもなく素晴らしい映像作品だぞ!
何よりも素晴らしいと思ったのは、この映画には作りこんだ映像なんか一切挿入されておらず、1時間半全てライブ映像のみで構成されていること。小細工なしに、ただ山下達郎のボーカルと演奏の魅力だけで観客をぐいぐい引っ張っていき、一瞬たりとも飽きさせないのだ。いやあ~山下達郎、恐るべし!ボーカルの素晴らしさは筆舌に尽くしがたいし、ギタリストとしても凄い腕前だということがよ~くわかりました。何よりも、彼のミュージシャンシップ、音楽を信じ切ってそれに身も心も委ねている様が映像からもはっきり伝わってくるのが感動的だった。
うーん山下達郎、やっぱり並みの人ではありませんなあ…。彼を支えるバンドにもリスペクトだ。
お客さんも良く入っていた。僕が観に行ったのは新宿バルト9。決して小さな映画館ではない。しかし、平日の午後という時間帯にもかかわらず、空いてる席はほとんどなかった。コンサート会場ではないから、声援が飛び交うようなことはなく、お客さんは本当に熱心に見入っていた。そして、エンディングには客席から大きな拍手が…。僕も自然と拍手していた。これ、ちょっと感動したなあ…。映画館で拍手が起きた体験なんてあんまりないもんねえ。これは、観客一人ひとりが本当に感動したからこそ起きた現象だったと僕は思う。
改めて言うが、僕にとって初めて観た山下達郎のライブは予想をはるかに超える素晴らしさだった。告白すると、僕はある曲を聴いていて思わず涙をこぼしてしまったぐらいなのだ。まさか山下達郎のライブ映像で泣くとは思ってもいなかったので、自分に自分で驚いちゃったよ(苦笑)。こういう時、映画館は暗くて良いですね(笑)。
あまりにも濃くて、あまりにも短い1時間半。こりゃあ~達郎氏のコンサート、絶対行かなきゃなあ~。首都圏でのチケット入手が厳しかったら、地方遠征してでも観たい。
この映画、東京では先週末から上映が開始されたんだけど、公開期間がすごく短い。東京だと9/2(日)まで。ってことは…。今週いっぱいしかないじゃないか!これだけお客さんが入ってるのに、なんでこんなに短いのか理解に苦しむけど、少しでも興味のある人は絶対に観ておいた方がいい。後悔しないことは、この僕が保証する。
「ヘルタースケルター」は、写真家・蜷川実花が映画監督を務めて2本目の作品となる。これは公開されたら絶対映画館で観ようと思っていた。1作目の「さくらん」でもそうだったように、映画全体で写真と同じようなドギツイ色合いが溢れるであろうことは間違いない。それはDVDになってから、うちのチンケなディスプレイで見たってダメだと思ったのだ。プラス沢尻エリカが“脱ぐ”ので、それを大画面で観たかった気持ちもちょっとあった(笑)。
僕が観たのは新宿ピカデリー。なんとなく、この映画は新宿とか渋谷とか池袋とか、そういう猥雑な町の綺麗めなハコで観るのが相応しいような気がして…。
まず驚いたのは、行ったのが公開からけっこう日が経った平日の夜だったにもかかわらず、けっこうな数のお客さんが入っていたこと。しかも圧倒的に20代前半ぐらいの若い女の子が多かったのだ。なんとなく僕は、90年代の岡崎京子を読んでいたような層が観に行ってんのかな、と思っていたんで、ティーンの女の子たちが大挙して映画館に押し寄せているという事実は驚きだった。彼女らが原作を読んでいるとはとても思えず、これは間違いなく、この映画で芸能界への復活を賭けている沢尻エリカ見たさなんだろう。なんだかんだ言われながらも、これだけの観客を動員してしまうエリカ様って、やっぱ凄いんですねえ…。今頃そんなこと言ってるワタシも馬鹿みたいですが(苦笑)。
賛否両論あるみたいだけど、僕としてはこの映画、とても面白かった。蜷川実花の人口着色料的なトーンにも、役者陣の演技にも、エリカ様のヌードにも十分に満足。「見たいものを見せてあげる」、まさに映画コピーそのまんまの作りだ。
ただ、これは岡崎京子の原作漫画とは別モノと考えたいなあ、オレは。だいぶ前に読んだから細かいところは忘れてしまったけど、原作の記憶と照らし合わせると、映画は若干オリジナルと違っていると感じたところも少なくなかった。
一番違うと思ったのは、主人公りりこの壊れ方だ。原作だとこのくだりはもっと怖く、もっと哀しく、もっと凄まじかった。だけど、沢尻エリカ演じるりりこには、それがあまり感じられなかった。誰もがそう思って観ただろうと思うけど、僕も最初は映画の主人公・りりこと現実の沢尻エリカとを同一視して観ていた。美しくあることが大衆の耳目を集める唯一の手段だと信じ、ひたすら整形手術を重ねていくりりこと、誰もが美人だと認めているのに、私生活の破綻ぶりやら記者会見でのキレっぷりやら、スキャンダラスな側面ばかりメディアから書き立てられるエリカ様とには、多くの共通項がある。だからこそ、監督は沢尻エリカを主役に抜擢したんだろうし、本人もそれを良くわかって撮影に入ったはずだ。
ところが、僕は最終的には現実のエリカ様がりりこに勝っちゃったような気がするのだ。沢尻エリカは僕が思っていたよりずっと巧い女優だった。でも、巧すぎるが故にどんなに堕ちようともなんとなく余裕みたいなものが漂ってしまう。濡れ場を演じててもな~んか全然エロくない…。うーん、なんで?おっぱいもお尻も全開なのに…(苦笑)。沢尻エリカってなんかビッチっぽいイメージがあるけど、実際はそんなにセックスなんか好きじゃないんじゃないか…。そんなことまで考えてしまった。エリカ様は美しく、間違いなくスクリーン映えする女優。その現実の存在感の強さが、りりこの危うさに勝っちゃってるのだ。
沢尻エリカってのは、ほんとに不思議な存在だと改めて思った。伝え聞く噂からは、なんて傲慢な女なんだろうと思ってしまうけど、大きなスクリーンに出るとものすごく美しくて打ちのめされてしまう。でも、あんまり美しいから、どんなに壊れていっても全然崩れた感じにならない。僕なんか、途中から自分のS的部分に目覚めさせられ、心の中で“もっと壊れろ、もっと崩れろ!”と念じていたぐらい(苦笑)。でも、泣くと本当に可愛くて可哀想になっちゃって、気が付くといつの間にかりりこの味方になってしまっている。で、後でまんまと気が付くのだ。原作と違ってようとなんだろうと、エリカ様の演技はすごかったと。結局、りりこ役はエリカ様以外には考えられなかったなあと…。あれ?オレ、ひょっとして蜷川さんの術中にまんまとハマってる?(苦笑)
エリカ様と他のキャストとの主要な絡みがあるのは、マネージャー役の寺島しのぶと社長役の桃井かおり、それと、検事役の大森南朋の3人か。
寺島しのぶと桃井かおりはもう流石としか言いようがない。寺島はいつもよりずっと地味な役回りで、大女優が何もこんな役引き受けなくたっていいんじゃないの?と思って観てたんだけど、最後の最後に大逆転。水原希子演じる次世代モデルに対して見せるラスト近くの表情、あれは彼女にしかできないなあ。恐れ入りやした。
桃井かおりはいつもの桃井かおりなんだけど、そのハマり方が半端じゃなかった。思い出したんだけど、この人、若い頃にCMで「世の中バカが多くて疲れません?」って言ってバッシングされてなかったっけ?(あれはコピーライターが書いたセリフで、桃井かおりがそう思ってたわけじゃないだろうに…)あの一件って、考えてみたらエリカ様の「別に…」事件と似てなくもない。この時期に桃井かおりと出会ったことは、沢尻エリカにとってもすごく良かったんじゃないかと僕は思うなあ。
大森南朋に関しては大いに違和感を持った。なんだ、この薄っぺらさ(苦笑)。こんなポエムみたいことを言う検事がいるかっつうの!タイガー・リリーなんて台詞が飛び出した時点で吹き出しそうになっちゃったよ、悪いけど(笑)。まあ、これは別に役者のせいではないんだけどね。漫画だとああいう台詞があっても違和感ないけど、それを映画に移植しちゃうと途端に陳腐になる典型だな、これは。
実は、検事の描き方そのものも原作との相違を感じた点の一つなのだ。漫画だと、なぜ彼が整形外科を執拗に追いかけているのかがわかるような描き方をしてあったと記憶してるんだけど、映画ではそれは全くなかった。もうちょっと何とかして欲しかったなあ、この役柄だけは。
まあ、いろいろ言ったけど、これが映画として面白いのは間違いない。原作と合ってようとなかろうと、そもそもそれ自体90年代半ばに描かれたもので、2013年の今に実写化するなら、ある程度変えなきゃいけなかった点もあったんだろう。
というより、やっぱりこれはエリカ様だけ観てればいい映画なのでは?(笑)恐らく、蜷川実花もそう思って撮ったんだろうし、彼女はそれに十分応えられるだけの逸材だ。僕は沢尻エリカがこれから女優としてどんなキャリアを積んでいって、やがて「ヘルタースケルター」が、彼女の中でどんな位置づけになっていくのか、とても興味がある。少なくとも、こういうキャラの女優は日本には彼女以外存在しない。それだけは確かだ。
これ、公開初日に子供にせがまれて観に行きました。最初はあんまり気乗りせずに横目で見てたんですが、途中からかぶり付き(笑)。いやあ~面白いんでないの、これ!
マニアの方ならご存知でしょうけど、スパイダーマンってのはもともとアメリカンコミックのヒーロー。映画の実写版は2002年から3作作られていて、その後のシリーズ化も予定されていたんだけど、いつの間にかそれはナシになって(一説では主役のトビー・マグワイアが歳くって太っちゃったためとか…)、監督も主役の俳優も変えてあらたにリブート化したのが、この“アメイジング”スパイダーマンってわけ。
うちの子供なんかの世代は、この映画で初めてスパイダーマンものに接するわけだから、当然そんな流れは知らないし、知ったからってどうというものでもない。でも、僕ら世代はマグワイア版スパイダーマンも知ってるし、もっと前のアニメ版も見ているから、やっぱりどこまでがオリジナルに沿ってて、何を新たに加えてるのかってのが気にしなるよね。そういう目から見ても、“アメイジング”はなかなかよくできていると思ったのだ。
僕がツボったのは、“アメイジング”がこれまで以上にハイスクールム―ビー的な色が濃かったからだと思う。実は、僕はベタなアメリカの青春映画ってのがけっこう好きなのだ。アメリカのハイスクールを舞台にした映画やドラマは、キラキラした夢がある。80年代にはそういう映画、いっぱいあったなあ…。これが日本だと途端に田舎臭くなっちゃうのはどうしてなんでしょうね(苦笑)。
スパイダーマンってのは、もともと数あるアメコミヒーローの中でも、家族との関係や恋愛に悩んだりする人間臭いヒーローなのだが、それが“アメイジング”では、主人公の高校生活をとおしてより丁寧に描かれていた。要するに、単なる特撮ヒーローものじゃなく、青春映画としてもきちんと成り立っていたわけなんですな。
いつの間にか感情移入しちゃって胸が熱くなる場面もしばしば。特に、カート博士が変身した巨大リザードが、“天涯孤独のピーター・パーカー!”って言ってスパイダーマンに襲いかかってきた時、恋人グウェンの父親の警部が、それまでは二人の仲を快く思っていなかったのに“君は孤独ではない。我々が付いている!”と叫んで助けにきたシーンは涙ちょちょぎれた。いやあ~スパイダーマンで泣くとは思わなかったよ、オレ(苦笑)。
主役を務めたアンドリュー・ガーフィールド君の魅力も大きい。童顔のガーフィールド君は、ナイーブな高校生役にぴったりだ。シリーズ最初だから、ピーターがスパイダーマンになる過程も描かなければならないわけで、序盤は派手なアクションシーンがなかなか出てこないから、小3の次男は退屈してるかなあ~と思いきや、夢中になってスクリーンを見てた。これは、幼くして親と別れて暮らすことになったピーターの寂しさとか、孤独を抱えながらも明るく高校生活を送っているピーターを、アンドリュー・ガーフィールドが巧く演じてて、子供でも十分に感情移入できたからだろうと思う。
後半は待ってましたの特撮シーンの連続だ。ニューヨークの摩天楼を、クモの糸を使ってびゅんびゅん飛び跳ねていく映像は、アニメでは得られない映画ならではの爽快感!3Dはあんまり派手派手ではなく、ここぞという時に繰り出すような演出。これも良かった。作り手のセンスを感じます。
カート博士が変身した巨大リザードがいきなり大暴れするのは、ちょっと無理があったような気がするけど、アクションシーンは大迫力。子供もワタシも大喜びだ。男の子ってのは、ほんといくつになってもこういうのが好き。あ、オレもか…(笑)。
それにしてもガーフィールド君のスパイダーマンは、ほんとハマり役だ。決してハンサムじゃないけど、そこがイイ。ナイーブでジョーク好きで、頼りなさそうだけど最後は悪者を倒す。スパイダーマンはそんな等身大のヒーローなのですよ。
このシリーズ、まだまだこれからも続きそうで楽しみだ。ガーフィールド君は身体に貼りつくスパイダーマン・スーツを完璧に着こなしていたけど、これからもぜひその痩身を維持してシリーズを続けて欲しい。
たぶん、次作が公開される頃、オレは50を過ぎてるだろうなあ…。長男は大学生。次男は中学生ぐらいか。それでも男3匹、カミさんに呆れられながらも誘い合って映画館に足を運ぶんだろう。男はいくつになってもこういうヒーロー映画が大好きなのだ(笑)。
びっくりした!
これ、出張に出た時にちょっと時間が空いたんで、何の気なしに映画館に飛び込んだらやってたヤツだ。前知識は全然なし。きっとジョージ・クルーニーが主役で、彼を大統領に当選させるために側近やら何やらがいろんなことをする話なんだろう、ぐらいにしか思ってなかった(苦笑)。
これは半分当たりで半分外れ。大統領予備選挙の内幕を描いてるのはそのとおりだったんだけど、主役はジョージ・クルーニーではなく、選挙参謀たちだ。その参謀たちが大統領を当選させようと暗躍する。情勢が変わるたびに身内の間でも食ったり食われたり、生き馬の目を抜くような攻防戦が繰り広げられるのだ。リアルな予備選挙がどうなのかはわからないけど、二転三転していくストーリーはサスペンスものとして観る分には、なかなか面白かった。
で、僕が驚いたのは主役の選挙参謀を演じてたのが、あのライアン・ゴズリングだったこと!この人、つい最近まで全く知らなかったんだけど、数日前に見た「ドライヴ」ですっかりファンに。そしたら、一週間も経たないうちにまた出会ってしまうんだもんなあ…。ほんとびっくりした。
あの映画では裏の顔を持つ冷徹なドライバーを演じていたライアン君、ここでは180度違って、エリート選挙参謀を演じている。うーん、幅広い…。こういう映画に抜擢されるってのは、この人、間違いなくハリウッドでも注目されているんだろう。
ライアン・ゴズリングは、理想と現実に挟まれて苦悩する男の姿をうまく演じていた。特に、後半になって身内に裏切られてからの吹っ切れ具合がすごい。政治の世界の現実を知り、そこで生き延びるためには自分も何かを仕掛けていかなければならないと悟ったとき、彼の顔は「ドライヴ」の主人公を髣髴とさせるドヤ顔になるのであった(笑)。
冷たい眼差し。クールなセリフ回し。これがほれぼれするぐらいカッコいい。スゲエ役者だ、こいつ!後半はジョージ・クルーニーとタイマン張る場面も出てくるが、名優相手に全然引けを取らない演技を見せているのにはシビれた。
偶然といえば偶然なんだけど、短い間に2回もディープな演技を見せられ、僕はすっかりライアン・ゴズリング・フリークになってしまった(笑)。
実は、この映画には、僕が気になっていた役者さんが他にも出ていた。偶然にも、二人ともミッキー・ロークが再評価された「レスラー」に出ていた女優さんなんだけどね。
一人はエヴァン・レイチェル・ウッド。選挙事務所のインターン役で準主役級の重要な役柄だ。この人、実生活ではマリリン・マンソンの恋人っていう噂。どうりで「レスラー」でミッキー・ロークの娘役をやった時は、ゴスっぽいメイクだと思ったもんだ。でも、この映画では理知的なインターンを遜色なくやってて、なーんだ、こういう普通な感じもOKなのねと思ってちょっと安心(笑)。
もう一人は、マリサ・トメイ。この人はもう大好きだ!40過ぎてるのになんでこんなにキュートなんだろうなあ…。「レスラー」では落ち目のストリッパー役をやってましたが、どうしてどうして、その肢体は落ち目どころか現役バリバリ。すっぽんぽんで気持ちいいぐらいの脱ぎっぷりを見せ、がっつりポールダンスを踊って見せたのにはシビれた。アメリカ人には時々こういういつまでも若々しい女性がいますよね。この映画では、ニューヨーク・タイムスのバリバリの政治記者役を演じていた。ちょっと出番は少なかったけど、若いライアン・ゴズリングとの駆け引きはなかなかスリリングだった。立場によって見せる微妙な表情は、さすが巧いなあ~と思う。
エヴァン・レイチェル・ウッドにしても、マリサ・トメイにしても、日本にはあまりいないタイプの女優さんだ。
いやあ~いい映画を見た。得した気分だなあ…。
それにしても、ジョージ・クルーニーとライアン・ゴズリング、映画を見ている間、日本人の誰かに似てる気がしてしょうがないと思ってたんだけど、今わかった。ジョージ・クルーニーは子供のころにテレビで見てた田宮次郎にそっくりだ。ライアン・ゴズリングはあれだ、宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統!あ、あれは日本人じゃないか(苦笑)。
この映画、宣伝文句によれば“最高にクールな超絶クライム・サスペンス”だそうな。はい、大嘘です(笑)。この映画にそういうカタルシスを求めて行くと、間違いなく肩透かしを食わされる。それどころか、R-15指定になった凄惨な暴力シーンに不快な思いさえするかもしれない。でもオレ、これはハマったな。久々にイイアメリカ映画だわ、これ!
ライアン・ゴズリング演じる主人公は、普段は自動車修理工として働き、時折アルバイトで映画のスタントをやっている寡黙な男。だが、それだけでなく、卓越したドライビングテクニックを駆使して、裏稼業として犯罪者の逃走を請け負ったりもしている。そんな彼が子持ちの人妻と恋に落ち、甲斐性なしの旦那に翻弄される彼女と子供のために、危険な仕事を引き受けていくというストーリー。
まあ、脚本自体は取り立ててどうというものではない。むしろ、シェーンみたいな昔からあるヒーロー路線を継承したものといっていいだろう。
だけど、見せ方がすごく凝ってんだわ、これ。画面の隅々まで監督のこだわりが満載。まず僕がおおっ!と思ったのは、卓越した色彩感覚。独特の色世界は冒頭のクレジットが流れるところから既に始まっている。闇の中で車を流す主人公にカブせ、どぎついピンクの文字が流れていく。流れる音楽は80年代のエレクトロポップみたいな摩訶不思議なサウンド。このドラッギーな感覚は、まるで都会の裏側を息を潜めて覗き見てるようだ。
そして、映画が始まるとコントラストの高い、ベタっとした色合いにあっという間に引き込まれていった。いやー、ぶっ飛ばされたぜ。この制御された色彩感は並みじゃない。
映画は、序盤は比較的穏やかな展開。キャリー・マリガン演じる人妻と主人公とが過ごす静かな時間や、彼女の一人息子との触れ合いには心が和む。だが、修理工場のオーナーが付き合っているクセ者が出てきたり、人妻の旦那がム所から帰ってくるあたりからキナ臭い雰囲気がたちこめてくる。中盤以降は急激に緊張の度合いを増していって、どぎついシーンの連続だ。ある者は至近距離からマシンガンで頭をブチ抜かれ、ある者はナイフで腕を切り裂かれ…。僕の前の席の女性なんて、淡々とした展開からいきなりデカい銃声が鳴り響いたもんで、椅子から飛び上がってました(苦笑)。
ラストも決してハッピーエンドってわけではない。かといって悲劇的でもない。妙に余韻が残る生々しい諦観が漂うのだ。いくら血が流れても、なんかクール。
オレ、これは80年代によくあった低予算のアメリカ映画みたいだと思った。えーと、たとえば「パルプフィクション」とか「ジャッキーブラウン」とか…。僕の大好きな「ホームボーイ」とかにもちょっと似てるな。
この作品は、最近のハリウッドものみたいに、おせっかいなぐらい説明過剰な映画を見慣れている人にとっては、なかなか入っていけない世界かもしれない。でも、“ある種”の映画を通過してきた人にとっては、否応なく引きずり込まれてしまうニオイを嗅ぎ取るだろう。
ニコラス・ウィンディング・レフン監督ってのは只者ではないぞ。この人は確信犯なのだ。あえてハードボイルドの定番をなぞってみた。あえてキツイ色合いで塗ってみた。あえて残酷なバイオレンスシーンを挿れてみた…。そういうことなんだと思う。
主人公が爪楊枝を加えているあたりは、なんとなく日本の任侠映画っぽい雰囲気さえある。そういえば、極力シンプルな演出と暗示的なカット割りで観客に何かをイメージさせるあたりは、まるで北野映画みたいだ。
オレ、なんのかんの言っても、こういう安っぽいやさぐれた世界が好きなんだよなあ…。ビルの谷間の都会じゃなくて、小汚くてちょっとヤバい空気のL.A。そこでささやかに生きる男と女。血の匂いが漂ってくるような暴力描写。うーん、たまんねえ(笑)。
ある意味、これはアメリカンニューシネマの21世紀版ということも言える。そして、この普通じゃない主人公を演じたライアン・ゴズリングという俳優は普通じゃないな…。一発でファンになった。
ものすごくうるさくて、ありえないほど近い EXTREMELY LOUD AND INCREDIBLY CLOSE 2012/アメリカ
監督:スティーヴン・ダルドリー
原作:ジョナサン・サフラン・フォア
沁みたなあ…。この映画は、9.11後のある家族の姿を描いたものではあるんだけど、僕は巨大な悲劇に出会ってしまった人たちの喪失と再生の物語だと受け止めた。
主人公は一人の少年。9.11同時多発テロで大好きだった父親を亡くした少年オスカーは、悲劇の日から1年経って父の部屋から、“鍵”を見つける。そして彼は、鍵とそれが入っていた封筒に記されていた「BLACK」の文字に、いなくなってしまった父からのメッセージが託されていると考え、ニューヨークの街中を彷徨って“BLACK”という名前を持った人たちを一人ひとり訪ねる気の遠くなるような作業を続けていくのだ。
最初オスカーは、頭は切れるんだけど人との接触を拒む、ちょっとひねくれた少年として描かれていた。僕も最初は“可愛くねえガキだなあ…”なんて、あんまり感情移入できずにいたんだけど(苦笑)、映画が進むにつれ、父親と繋がる糸を手繰ろうと必死な姿にだんだん胸を打たれていった。
周りの人々の彼に対するさりげない愛情も素晴らしい。亡くなった父親はトム・ハンクスが演じていたんだけど、彼が生前オスカーにいろいろな謎解きを仕掛けていたのも、オスカーの人と付き合いたがらない性格を治そうとしていたからだということがだんだんわかってくる。
そして、言葉を話せない間借人のおじいちゃんが鍵を巡る冒険に付き合ってくれるようになった辺りから、オスカーは少しずつ変わり始めていくのだ。台詞を一切しゃべらない役を演じたマックス・フォン・シドーの演技のなんと素晴らしかったことか。訥々として、ちょっと悲しくて…。なんか、亡くなった自分の祖父を思い出したなあ。
映画は最後の最後にどんでん返しが待っていた。鍵の真相も、オスカーや観客の多くが望んでいたものとは違うものだったかも。人によっては、この結末をどうにもやりきれないと思うだろう。でも、僕はこれはハッピーエンドだと思いたいのだ。鍵の謎がどうであれ、オスカーはこの冒険を通して、かつて父親が願っていたような男の子への一歩を踏み出したに違いないのだから…。
この映画を通し、僕は9.11という悲劇がニューヨーカーに如何に深い悲しみをもたらしたのかを改めて知ったような気がした。鍵の謎を解くためにオスカーが会った人たちは、それぞれがそれぞれの場所で傷付いていた。そして、彼らはオスカーの訪問で、明らかに癒されていたのではないだろうか。
思い返せば、9.11が起きた時、遠く離れた日本ではテロリストへのアメリカ人の怒りが誇張された形で伝わったり、極端にパトリオットな方向に突っ走る人々の姿が報道されたりした。でも、大方の市井の人たちの胸のうちは、そんな荒ぶった感じではなかったと思うのだ。母親を演じるサンドラ・ブロックが、何故父親が理不尽な死を迎えなければならなかったのかと泣き喚く息子に向かって、“どうしようもなかったことなのよ…”と諭す場面があったが、人が圧倒的な悲しみに出会ってそれを乗り越えようとする時、当事者にとっては、怒りよりもまずなんとか心の平静を取り戻そうとするものなのかもしれないと思う。
もうひとつ、ここで描かれた親の子に対する愛の形にも深く心を動かされた。
うん、子を持つ人ならこの結末には感動せずにはいられないと思う。母親を演じるサンドラ・ブロックの演技は沁みたなあ…。いやあ~彼女、いつの間にこんな慈愛に満ちた演技のできる女優さんになったんだろう。本当に素晴らしかった。そして、ここではじめてこの映画の変わった邦題の意味にも気付かされることになるのである。
そして、トム・ハンクスの演じたオスカーの父親。2人の男の子の父親である僕に言わせれば、悲劇の死を迎えはしたけれど、死んだ後もこれだけ息子に愛されるなんて、彼はある意味幸せだと思う。まあ、それは生前ほんとうに息子を気にかけ、息子との貴重な時間をたくさん持っていたからなんだけどね。僕もこんな風に大きな器で子どもに接したいとは思っているんだけど、なかなかなあ…(苦笑)。
この映画、日本人にとっては、どうしたって3.11後の自分たちの姿を重ねないわけにはいかないだろう。冒頭にも書いたけど、僕もこの映画を9.11とは限定せず、巨大な悲劇に出会ってしまった人たちの喪失と再生の物語として受け止めた。
オスカーが願っていたものとは違う鍵の真実に出会っても成長の礎を見つけられたように、彼の冒険を通して母親も悲しみを乗り越えて息子との新しい一歩が踏み出せたように、オスカーの小さな冒険が多くの人たちの気持ちを癒したように、人はどんなに傷付いてももう一度やり直すことができるのだ。僕らは何度でも何度でも生まれ変われる。そんなことをこの映画は教えてくれてるんだと思う。
きっと時間が解決してくれると思っていた。去年の秋ごろはけっこういい感じで復活してきていた。でもこのところまた震災不感症が発病し始めている。3.11以降、僕の中では、音楽や映画、小説などの表現がどうにも素直に受け止められなくなっているのだ。あの日を境に、僕の中の何かが変わってしまった。冷めている。どうしようもなく醒めているのだ。
今はなんだかライブに行くのも気が重い状態。ライブが始まるのを待っている時の弛緩した空気がたまらなく嫌だし、ライブ会場に流れる約束事がものすごくもどかしい。なんだか、ヘラヘラしてるやつらの顔を見てるとぶん殴りたくなってくる(しませんけど…)。たぶん、今後僕はライブに足を運ぶ回数は激減するだろう。
でも、そう思ってるのは僕だけではないんだと思う。ある雑誌で高橋源一郎と斎藤美奈子が2011年のブック・オブ・ザ・イヤーを決める対談をやっていたんだけど、そこで2人は、総ての表現が3.11以前と以降に分断されてしまい、ベストを決めるのにすごく苦労したという趣旨の発言をしていた。
語弊があることを承知で書く。東日本大震災と原発事故は、同じ災害でも阪神・淡路大震災とはまったく違うニュアンスを感じる。それがなんなのか、今はうまく言葉に表せないが、こと原発事故に関しては、これまで日本が見ないふりをしてきた邪悪な構造が白日のもとに曝け出されてしまった。そのあまりにも重い事実の前に、僕はただただ立ち竦むことしかできないでいるのだ。
これまで、「戦後の終わり」という言葉を何度か聞いた。でも、この事故は本当の意味で戦後を終わらせたのではないか。そして、高度経済成長というこの国の発展の歴史が、実はハリボテのようなものであったということも見せ付けたのではないか。
でも、僕は諦めない。表現者の力をまだ信じている。圧倒的な事実の前で、それと対抗できるだけの表現が必ず生まれる。そう思っているし、そう思わないとこの先音楽も映画も観ていられなくなってしまうではないか。
で、園子温監督の「ヒミズ」だ。暴力描写たっぷりの重く暗い映画。普通に生きたいと願う中学生が汚い大人の象徴のような、クズに等しい両親に翻弄され、その未来を閉ざされていく。そこに園子温は震災によって未来を奪われた人たちの心象風景をリンクさせてきた。
現実の被災地という、圧倒的にリアルな現場でのロケーション。悲劇の現場での演技は、ともすれば不謹慎、話題づくりとのそしりを受けかねなかったはず。事実、この映画に関してそういう評価を下す人も多いと聞くし、原作を知っている人からは“原作のあるものを、わざわざを震災と絡めて失敗している”と批判されてもいるそうだ。
にもかかわらず、僕はこの映画に心を震わせた。それは、園子温という男が3.11を通過し、表現者として様々に思い惑った残り香が強烈に漂っているのを感じたからだ。原作があろうとなかろうと関係ない。これは明らかに3.11後の世界に思いを寄せ、その現場を見た表現者が沸きあがる衝動を抑えきれずに作った表現なのだ。
東北ロケに関しては、3.11以前に立てられた企画の段階で既に予定されていたという。当然、その頃は震災のことなんて誰も予想していない。だから3.11が起こった時、当然のことながら中止を主張する声が多かったと聞く。しかし、園子温は瓦礫だらけの現場に行ってみて、圧倒的な悲劇を前に何かを思い、湧き上がる感情を抑え切れなくなったのだ。そのリアルな衝動に僕は共鳴する。
確かに、気持ちが走りすぎて、物語が破綻している部分があることは否めない。僕は原作を読んでいないが、原作とはまったく違う映画になっていると言う人の意見もたぶん当たっているのだろう。
だが、それでもいい。わかる人にはわかる。それでいいではないか。日本政府の原発事故収束宣言の捉え方が人によってまちまちなように、3.11後の表現も100%の共感を持って迎えられるようなことは、もはやないのではないか。
この映画では、登場する誰もが、大人も子どもも、男も女も、理不尽と思えるほど酷い有り様で暴力を受ける。顔を殴られ、蹴飛ばされ、血反吐を吐いてへたり込む。でも、僕にはこの描写が快感だった。不謹慎と思われてしまうが、この痛さがどうしようもなくリアルだった。できることなら俺も誰かを殴りたい。そして、口もきけないほど殴られたい。そんな衝動に駆られた。
そういえば、登場してくる女子中学生は、こんなことを言ってたっけ。
人生にケチのついた人間は嫌でも価値観を変えざるを得ない。これはもうほとんど義務だよ。
この台詞、実は今の日本そのものに向けられているのではないのか。
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