書籍・雑誌

2018年11月 4日 (日)

「線量計と奥の細道」ドリアン助川 著

Img_8668_4

ドリアン助川 著「線量計と奥の細道」を読み終えた。2012年の8月から11月まで松尾芭蕉の旅した#奥の細道 を自転車で走破した記録。

全編にわたってドリアンさんの戸惑い、逡巡、葛藤が伺われるのが心に残った。震災直後、僕も自転車で故郷の町を巡ったことがあるが、その時も線量計を使うのがだんだん苦痛になってきたのを思い出した。真実を知りたいという気持ちで線量計を持ってきたのに、目の前の美しい故郷の風景と裏腹に出てくる数字という現実を受け入れるのは、思っていた以上に痛みを伴う行為だった。どんな数値が出ようと、そこで暮らしている人が現実にいる。そこでよそ者の僕が簡単に危険と言い切ってしまっていいのか。最後の方はもう計器を握り潰したくなった。

この本が出たのは今年の7月。今の時点で当時を振り返ったあとがきが読ませる。震災直後はあれほどSNSを賑わせていた原発事故関連の記事は、今は数えるほどしか見なくなった。僕も含めてみんな忘れようとしている。でも、かの地では痛みを感じながらも、これを後世に伝えていこうとしている人たちがたくさんいるのだ。

ドリアンさん、もし震災前に奥の細道を旅していたら、どんな紀行文を書いたんだろう。きっと、もっと芭蕉の心情に寄り添った、これとは全く異なるものを書いていたに違いない。

故郷の町を流れる阿武隈川には、震災後も変わらず白鳥が飛来する。その美しい姿を見ながら、でも彼らの身体にはどのぐらいの放射性物質が沈殿しているのだろうかなどと考えてしまう自分が哀しい。僕らはもう2011311日以前とは違った世界を生きていて、もう二度と芭蕉の暮らした世界には戻れないのだ。

2013年7月 8日 (月)

音楽配信はどこへ向かう? アップル、ソニー、グーグルの先へ…ユーザーオリエンテッドな音楽配信ビジネスとは?/小野島 大(著)

510jpqbowbl_aa278_pikin4bottomrig_2

雑誌『ミュージックマガジン』の連載「配信おじさん」の書籍化。著者の小野島さんは「フィッシュマンズ全書」の著者で、FBフレンドになっていただいてる方です。

この本は、配信が中心となりつつある今の状況におろおろしてる僕みたいな音楽おぢさんが、現状を俯瞰するのには最適のテキストかもしれません(苦笑)。今さら言うまでもないことですが、CDの売り上げは年々減っています。90年代みたいに多彩な音楽のCDがメガセールスを記録するような時代は2度と来ないでしょう。じゃあ、減った分だけ配信に流れていってるかというとそうではないんだよね。音楽を聴く分母そのものがどんどん減っていってるんです。21世紀は音楽が生活の中で占める割合がどんどん低くなってる時代。
そんな中、ネット配信ってのは音楽復興のための命綱になれるはず。それはみんな何となくわかってるんだけど、なかなかそっちに踏み込めない。CDに馴染んできた旧来の音楽ファンは、配信というカタチのないモノを購入する行為がどうにも肌に馴染まないし、業界内でも既得権益を守ろうとする人達がいたり、日本独自の著作権の壁があったりでなかなか思い通りに事が進まない。そんなこんなでもたもたしてるうちに、ますます音楽離れは進んでいく…。この10年ぐらいは、そんな流れがずーっと続いてるんじゃないでしょうか?
だいたい、一口にダウンロードサイトって言ったって、itunesやらmoraやらdiscasやらいろいろあって、どれが良いんだかさっぱりわかんないよね。そうなると、オレみたいなおっさんは気が短いから“あ~っ!”ってなって、AmazonでCD買えばイイや!ってことになっちゃう(苦笑)。で、袋が赤黒の某ショップなんかに行くと、同世代ぐらいの音楽ファンがいっぱいいるから何となく安心しちゃって、ネット配信はとりあえず様子見でいいや…(苦笑)。そんなところで止まってる同世代はきっと多いと思う。

でも、最近僕はもうちょっと配信に関して現状を知っとかなきゃヤバイんじゃないかってことも思い始めてるんです。だって、好む好まざるに関わらず、今後音楽をユーザーに届けるデバイスが配信主体になっていくことは疑いようがないわけでしょ?音楽おぢさんとしては、その中から肯定的な材料を見つけ、自分自身も少しずつ変わっていくしかないと思うんですよ。これまでにコレクションした莫大な量のCDを聴くだけでも人生は楽しく暮らせるかもしれないけど、やっぱり好きなバンドの新譜も聴きたい。だったら、アーティストが心置きなくスタジオアルバムをリリースできる環境を維持していくために、配信も受け入れていかないと。下手すりゃ、音楽音源販売という文化形態自体が絶滅しちゃうかもしれない話ですからね…。
オレ、この本の中で物凄くショックな記述を見つけちゃった。最近のドナルド・フェイゲンの発言なんだけど「今、自分の収入の大半はライブ活動によるもの。スタジオ音源だけでは食っていけない」。あのスティーリー・ダンがですよ。あれほど緻密なスタジオ音源を作るドナルド・フェイゲンがですよ!今、日本でもライブは人が入るけどCDが売れないっていう状況になってますが、アメリカは日本以上に深刻なのかもしれません。

この本に書かれてるのは、音楽のネット配信に関して2008年から2013年の5年間に起きた出来事。僅か5年。でも、この短い間にも状況は激変してんだよね。まずはそれに驚いちゃう。渋谷のHMVがツブれたことや、ナップスターだ、着うただってのも既に懐かしい言葉になってるもんなあ(苦笑)。実際、この落ち着きのなさがデジモノに弱い僕に二の足を踏ませてたところがあります。ハイレゾ音源の配信とか言ったって、それを再生できる機材をそろえなきゃ話にならないし…。ただ、定額制で一曲当たりの単価を下げたサービス形態とかが普及してくれば、新しい音楽との出会いが増えそうで面白くなりそうな予感はします。
後はあれだな。僕自身の意識下にあるモノ信仰を払拭しなければならない。実はコレが一番問題(笑)。僕ら世代にはそういう人が多いと思うけど、音楽をものとして持っていたい気持ちにはなかなか抗えない。CDとかヴァイナルとか“モノ”としてちゃんとカタチがあり、それにはちゃんとジャケットと歌詞カードが付いて、曲のクレジットもきちんと記載されてる。そういうものを所有するのが“音楽を買う”ということだっていう気持ちから抜け出すこと。これができそうでなかなかできない…(苦笑)。

ただ、そういう気持ちも最近変わりつつある。僕は音楽以外に本もたくさん読むんだけど、最近、電子書籍も案外いいなあって感じてるんです。装丁とかを愛でる感覚はないけど、それもすぐに馴れたし、当たり前だけど読後感は変わりません。印刷代がかからないせいか、電子版の方が紙より価格が安いことも多いし、何よりも場所をとらないのがありがたい。考えてみたら良いことづくめのような気がするんですよね。
タネあかしをするとすると、この本も配信のみの出版なんです。音楽と本では違うけど、こういうカタチで電子配信に慣れていってほしいって言う小野島さんの作戦なのかな、これ?(笑)

2013年6月11日 (火)

キャパの十字架/沢木 耕太郎 (著)

425235_160926874088521_1158351552_n

これは戦場カメラマン、ロバート・キャパの有名な写真「崩れ落ちる兵士」にまつわる謎を、ノンフィクションライター沢木耕太郎が追った本。「崩れ落ちる兵士」ってのは、キャパが1936年に撮影したもので、長い間兵士が銃撃を受けて倒れる瞬間を捉えたものとして戦争の悲惨さを訴える象徴的な写真とされてきました。ところが、これはあまりの迫真性ゆえ、昔から真贋を問う声や、果たして本当にキャパが撮ったものなのかどうかという疑義が呈されてもきました。自らもキャパを信奉して憚らない沢木さんは、この長年の疑問を解くべく真っ向から写真の検証に臨んでいます。

いやあ~とにかく面白いっ!当時の掲載誌の確認や関係者への取材にはじまって、幾度もの現地訪問を重ねてのリアルな撮影場所の特定や、実際にキャパが使っていた機種を使っての撮影実験など、緻密な検証を積み重ねて真実に迫ってく様はとてもスリリング。下手な推理小説なんか足許にも及ばないな…。読み始めたらあまりの面白さに、もう止められない止まらない(笑)。寝る間も惜しんでページを捲り続けました。

ただ、これは大事なとこだと思うんですけど、沢木さんは決してこれをキャパの偶像を剥ぐような目的で書いたわけではないと思うんです。謎解きの楽しさもある本だから、ちょっと結論は書けませんが、沢木さんは、キャパに対して「ただ視るだけしかできない」というカメラマンや報道記者に共通するある種の哀しみを見出していたんだと思うんですよね。そして、あまりにも有名になってしまったこの写真の真実を追うことが、もしかしたら写真家キャパの真実の姿を捉えることに繋がるんじゃないかと確信していたんだと思うんですよね。
だから、この本で一番沢木さんの書きたかったのは、実は謎を検証する道程ではなく、「キャパへの道」と題された最終章だったんじゃないかとも思うんです。
ここからは僕の意見なんですけど、実は「崩れ落ちる兵士」に関しては、この本にも書かれていないもう一人の重要人物がいるはずだと思うんですよね。それは、この写真を雑誌に掲載することを決めた編集者。彼は、この写真が撮られた状況をキャパに確認することもなく雑誌に掲載したことで、良い意味でも悪い意味でも大きな論争を巻き起こしました。だけど、その編集者だって「崩れ落ちる兵士」の持つ迫真性が、戦争の悲惨さを広く訴えるに違いないと思ったからこそ掲載を決意したんだろうし、そこには一点の曇りもなかったはず。
編集者の思惑は見事に当たり、「崩れ落ちる兵士」はスペイン内戦の共和国軍の悲哀を象徴するものとなりました。言い方を換えると、この時点で写真は撮り手の手もとを離れ、“世の中のもの”となっていったわけです。そうなったら、持たされた意味の大きさに、当事者でも口を開けなくなるのは当然だと僕は思うなあ…。

ただ、キャパ自身が「崩れ落ちる兵士」に複雑な感情を持ち続けていたのもまた確かだと思うんですよね。後にキャパが撮った、真贋の疑義を挟み込む余地もないほどの傑作「ノルマンディー上陸作戦」。これ、ある種の“落とし前”だったんじゃないかと僕は思うんですけど…。
オレ、思った。もしかするとこういうことって誰の人生にでも起こり得ることなのかもって…。HOLE IN MY LIFE…。人生ってのは、何処かでうやむやにしてしまった物事は、また何処かで代償を払うようにできているんじゃないでしょうか?
翻って自分。僕はキャパほど大きな事は成し得ていませんが(当たり前です!)、45過ぎてからマラソンを走ったのも、ある種の“落とし前”だと思ってます。そうやって、人は忘れ物を拾い集め、代償を払いながら歳を重ねていくものなのかもなあ…。な~んてことを「キャパの十字架」を読んでて思いました。

うーん、考えすぎてもなんだな…。今夜はちょっと呑もう。ブルース・スプリングスティーンの「PRICE YOU PAY」を聴きながら…。

2013年6月 6日 (木)

『ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ』/円堂都司昭 (著)

Img_0839

大変面白く読みました。いやあ~、これはもしかしたら僕みたいなおっさんの音楽好きが、今の多様な音楽の接し方を俯瞰するには最適のテキストかもしれないです(苦笑)。
タイトルどおり、円堂さんは音楽のきかれ方が「聴く」から「遊ぶ」に変わっていっていることを、いろんな事例を挙げながら語っていきます。著者が基本的な考え方のフレームとして出してきたのが「分割」「変身」「合体」という3つの単語。

分割:「作品」としてのまとまりを分割、分解する手法。(例:音楽配信=アルバムでなく曲単位への購入スタイルの変化。フェスティバル=アーティストの単独ライブではなく、雑多なジャンルをバイキング形式で楽しむスタイルへの転換)
変身:音楽の形を変える手法。(リミックス、マッシュアップ、着うたなど)
合体:音楽に関し、それを作り演奏したアーティスト以外の人間がかかわる(合体する)ことで遊ぶ(ボーカロイド、音楽ゲーム、エア芸、アーティストとタイアップしたパチンコなど)

こんな感じです。今の若者の音楽への接し方を見てると、確かにこの3つのスタイルに当てはまる割合はすごく高いように思います。そして、このフレームで「遊ぶ」連中も増えてますよね。ニコニコ動画に「歌ってみた」「踊ってみた」って自作の動画をアゲる連中、たくさんいるでしょ?カラオケだって「合体」の形態の一つ。CDが売れなくなったって言うけど、今の若者が音楽そのものと接してないわけでは決してないんだよね。ただ、そのやり方が僕らとはだいぶ違うかもしれないけど…。

円堂さんは、こういう変化はどっかを節目に突然パッと変わったわけじゃないとも言ってます。古くはウッドストックやカラオケなどを通過することで、徐々にリスナーが受容する空気が出来あがったんだと。若者と僕らおっさん世代は別に分断されてるわけではなく、むしろ、僕ら世代も今みたいな状況が生まれる芽をいくつも育てながらここまで来ちゃったってこと。まあ、通信カラオケはネット配信の走りと言えなくもないし、口パクやってるPerfumeや楽器を演奏しないゴールデンボンバーが認められてるってのも、時代の空気を読んでの暗黙の同意事項が出来あがってるからなんだろうし…。

でも、どうなんだろう…。ぼくはやっぱり音楽は「作品」だと思う。そういうのを自分の手で加工して「遊ぶ」のにはものすごく抵抗を覚えてしまいます。逆に、そんな風なやり方でしか音楽と接することができないのなら、それはもはや僕が思う音楽の概念とは違っちゃってるような…。ただ、じゃあサンプリングやDJプレイもダメかって言ったらそうでもないわけで、その辺の線引き基準は自分でも良くわかりませんけど…。

一つ思うのは、ネットや携帯電話の発達が社会のいろんなモノのソーシャル化を進めたと僕は思うんだけど、音楽に関して言えばそこで失われたものって決して小さくはなかったと思うんです。つまり、生まれた時からそんな環境が当たり前だった若者たちにとって、音楽を聴く道具は圧縮音源を使った携帯プレーヤー、パソコン、携帯電話しか思い浮かばなくなっちゃってるじゃないですか。僕らはそれ以上に音の良いものも知ってるけど、若者たちはそもそも音の良さより使い勝手と面白さ優先だから、そんなものに触手を伸ばさない。まして、今の若者にとって欲しいものの優先順位は一にスマホ、二にパソコン。楽器なんてのはずーっと後ろでしょ。そう考えると、バンドをやるなんてのは限りなくマニアックな行為なんだよなあ(苦笑)。こんな状況だったら、洋楽が売れなくなるのもしょうがないのかなあ、なんて…。

この前、「J-POPのグローバル化」についてのシンポに出た時も思ったんだけど、僕らの世代が死んじゃった後、音楽ってどうなっちゃうんでしょう?スピーカーの前でただ耳を傾けること自体が、ものすごくマニアックな行為になっちゃったりして…(苦笑)。なんか、そういうのすごく嫌だなあ。理屈じゃなくて生理的になんかすごく嫌。単なるおっさんのノスタルジーって言われちゃうかもしれないけど…(苦笑)。

2012年12月 3日 (月)

【本】社会を変えるには (講談社現代新書)/小熊英二

Image_3

予想どおりと言えば予想どおりなんだけど、暮れも押し迫ったこの時期、日本は選挙モードに突入した。だけどオレ、今回はほとほと困っちゃってんだよね。なんとかしてこの状況を変えてほしい、変えたいと思ってるんだけど、投票したい党、当選して欲しい人がほんとにいない。
毎回選挙のたびに困った、困ったって言ってる気がするけど、今回は本当に切実。これほどの焦燥感は、自分が選挙権を得て以来、はじめてだ。だって、この国はこれほど景気が落ち込んでいる時期に、あれほどの災害と大事故を受けているのですよ。ここで選択を誤ったら、日本はほんとにもう立ち直れなくなっちゃうんじゃないだろうか…。この本を読もうと思ったのも、そんな藁をもつかむ思いからだ。夏ぐらいから話題になってる本だってことは知ってたんで、なんとなく来たる選挙に対するヒントが見つかるかな、と思って…。

結論から言うと、そんなものは見つからなかった。当たり前だ。そもそも、これは“答え”を出そうと書かれた本ではないんだから。ただ、そもそも“社会が変わる”とは、どういう状態を言うのかすら、オレにはわかってなかったんだなあ、ということはよく解った。それだけでも僕にはとても大きな収穫だったと思う。

この本は、今の日本の現状を確認したうえで、戦後の社会運動を振り返り、民主主義や自由主義の歴史まで遡って、どうすれば”社会を変える“ことができるのかを探っていく。
正直言うと、第4章から第6章までの部分は、大学の科目にあった歴史学や哲学、政治思想史なんかを連想させ、読むのにかなり体力を要した。まあ、”社会を変える“という壮大なテーマを一冊の新書にまとめようとするならば、こういう方法をとるしかなかったのだろう。苦労して読み込んだ分、読後にすとん!と落ちる説得力は確かにあったし。

この本を読むと、著者は3.11に起きた原発事故とそれに対する社会の動きに並々ならぬ関心を持っていることがわかる。脱原発デモに関する記述も多く、これが新しい社会の流れを生み出すのではないかと感じてもいるようだ。ちょっとデモの力を過信しているような気もしないではないが、歴史的な流れから脱原発デモを見る視点は“なるほど!”と思わせるものがあった。
原発事故はそれ自体も勿論深刻だけど、同時に戦後の硬直したシステムを白日の下に晒け出したことが、社会に大きなインパクトを与えた。脱原発デモはそのインパクトに対する市民の自然な反応なのだ。経済が20年も停滞し、もともと不満と政治不信が高まっていたからこそ起きたものだと著者はいう。かつての全共闘運動は担い手の学生が就職したら即終焉してしまったが、脱原発デモは、もともと自分の生活に不満を持っていたさまざまな身分の人たちが参加していて、いまや一億総中流意識もとっくに崩壊しているんだから、そう簡単には収まらないだろうと著者はいうのだ。

正直言うと、デモに関しては現場でいくら主張しても、それが実際の政治の現場に反映されなければ何も意味がないのではないかという気持ちも僕にはあった。
それに対して著者はこう主張する。デモや運動は“やること”自体に意味があるのだ。デモに参加するのが、かつてのような”特殊な行為”でなくなれば、それは誰でも自由に声をあげられる社会ができるということとイコールであり、より民主主義の理想に近づいたことになる。そして、運動に参加した人は、声を上げられる社会の到来を実感でき、自分自身が変化していくと…。

結局、著者の言いたいことは、“社会を変える”ためには“自分がまず変わらなければならない”ということなのだ。この本を読んで得た僕なりの答えは、社会を変えるには投票だけじゃない何かが必要なのだということ。うーん、投票に関するヒントが欲しいと思ってたのに、この本はその先を照らしていたんだなあ…(苦笑)。

本を読んでも、何かをしなければという焦燥感は募るばかり。
だが、それでもいいのではないかとも思う。八十年代以降、僕も含め、日本で政治への無関心層がどんどん増えていったのは、経済も雇用も安定していたからだと思う。無関心でいてもなんとか暮らしていけたのだ、少し前までは。そんな状況がどんどん陰りを見せ、徐々に高まっていた政治不信が原発事故で閾値を越えてしまった。僕の今感じている焦燥感は、閾値を超えてしまった不信感で身も心もやられてしまった結果なんだと思う。

選挙が終わった後、日本の景色がどうなっているか。その中で自分は何を考え、どう動いていくか。まだわからないけど、そのヒントはこの本の中に確かにあったような気がする。

2012年9月24日 (月)

【本】 その日東京駅五時二十五分発/西川美和(著)

332581この本の著者、西川美和さんは、今公開中の映画「夢売るふたり」や「ゆれる」「ディア・ドクター」を手掛けた映画監督だ。何度もブログで紹介しているように、僕はこの人の作品が大好き。人と人との間の複雑な心理描写を描かせたら、今の日本でこの人の右に出る映画監督はいないと思う。
そんな西川監督、実は小説も何本か書いていて、中には直木賞候補となった作品まである。西川さんは映画の脚本もすべて自分で書いているが、これだけ文才のある人だったらそれも頷ける。言い方を変えれば、こうやってトータルで作品に関われる才能があるからこそ、あれだけメリハリの利いた心理描写を映画に投影できるのだと思う。

さて、「その日東京駅五時二十五分発」だが、これは7月に出版されたばかりで、今のところ“小説家”西川美和の最新作。この小説には元になる実話がある。西川さんの伯父さんは、1945年春に召集されてから終戦を迎えるまでの3ヶ月間、陸軍の特種情報部の傘下で通信兵としての訓練を受けていたのだ。伯父さんはその体験を手記にして親戚の人に配ったという。2012年に家族からそれを渡された西川さんは、何とか小説の形に整えて多くの人に読んでもらいたいと考えたそうだ。

あらすじはこんな感じ。
広島に暮らしていた飛行機好きの「ぼく」は、19歳で軍に召集され大阪の陸軍通信隊に配属される。そして数日後には通信隊本部へ転属となり、東京に出て通信兵としての訓練を受ける日々を送ることになった。
ある日、無線の送受信の練習中、「ぼく」たちはアメリカの放送を受信して不思議な会話を聞いてしまう。それはポツダム宣言の内容だった。日本語訳がラジオで流れる前日のことであり、ほとんどの日本国民はこれを知らない。
やがて、上司から隊の撤収が告げられる。戦争は終わったのだ。「ぼく」たちは機密書類や通信機材の一切合財を焼却し、2カ月前に降りたばかりの東京駅へと向かう。もう隊が存在しないのだから故郷の家に帰るしかないのだ。乗り込むのは、8月15日5時25分発の東海道線。行き先は9日前に「新型爆弾」で丸ごと吹っ飛ばされたとラジオで流れた広島だ…。

いわゆる戦争体験記にあたる小説だし、舞台として広島が出てくるから、悲惨な体験が延々綴られると思いきや全くそんなことはなく、拍子抜けするぐらいに淡々とした話が続く。「ぼく」は一発の銃弾も放たず、辛い軍隊生活もそれほど長くは経験せずに済んだ。東京の部隊に召集されていたため、原爆の直接の被害を受けることもなかったし、下っ端兵なのに任務の特殊性ゆえ誰よりも早く日本の敗戦を知ってしまう。そして、世間の風とは逆に誰よりも早く帰路に着いてしまった。
つまり、伯父さんは「全てに乗りそびれてしまった少年」だったのだ。

実は、僕がこの小説で深く心を動かされたのは、この小説本体ではなく西川さんの書いた「あとがき」である。
広島育ちで子供の頃から凄惨な話ばかり聞かされて育ってきた西川さんは、叔父の“ゆるい”体験談に逆に驚くとともに、戦時中にもこんな淡々とした時間が流れていた場所があったのだと幾分ほっとするような気持ちを抱いたという。なんだかその気持ちが僕にもわかるような気がするのだ。

もう一つ、「あとがき」を読むと、この小説には3.11から大きな影響を受けていることがわかる。西川さんは、2011年の春から広島の実家でこの小説を執筆していて、3月11日を迎えたのだ。
被災地から遠く離れた広島でテレビやインターネットから飛び込んでくる惨状を見るにつけ、信じられないような思いと胸を締め付けられるような不安にかられたという。しかし、いったんスイッチを切ってしまえば静かな日常が戻ってきて、自分は被災地から遠く離れた地で小説を書くという、意味があるのかないのかわからないような作業を行っている。
そのパラドックスの中で西川さんは気が付いたそうだ。国が滅ぶほどの悲劇というものは先人の戦争体験が最後で、よもや自分たちの代でそんなことが起こるはずがないと、自分は心のどこかで舐めていたと…。これまで自分は、なぜ先人は戦争なんて愚かな道に突き進んでいったのかと思っていたのだが、実は何も疑問を持たずに生きていた自分たちこそが大きな過ちを犯していたのではないかと…。

これは、2011年以降、多くの人が抱いた気持ちではないだろうか?
西川さんは、あの震災がなければ、恐らくこの小説は全く違ったものになっていただろうと語っている。それは読者も同じで、僕もあの震災がなければ、この小説を読んで今とは全く違った感想を持ったと思うのだ。この小説は「ぼく」が広島に帰ったところで終わってしまうが、本当は「ぼく」にとっての戦争は、この時から始まったような気がする。それは、なんだか昨年の春、原発事故後に故郷に帰った僕とそっくりに思えた。広島の惨状や悲惨な戦場から一歩引いたところにいたがゆえに、今ひとつ戦争のリアリティを感じずに広島に帰った「ぼく」と、2012年の日本を生きる僕。なんだろう、このパラドックスは…。

この小説には、「あとがき」以外、震災に関する記述は出てこないが、これは紛れもなく3.11後に生まれた優れた表現の一つだと僕は思っている。

2012年9月21日 (金)

【本】戦後史の正体 / 孫崎 享 (著)

S今、巷で話題の本です。アマゾンのレビュー数も多いし、この手の本としては異例ともいえる売り上げを記録しているそうな。

こういう本を読むときにまず僕が気にするのは、著者がどんな経歴の人で、書かれている内容にどれぐらい信憑性があるのかということだ。だいたいの場合、バックボーンに思想的な偏りがある人は、やや筆が走りすぎる傾向があり、結果として著者自身の憶測が入り込みやすいように思う。その点では、この本の著者・孫崎享氏は元外務省国際情報局の局長で、在イラク・在イラン大使も務めたことがあるという人物。つまり、外交上の機密文書を直接読める立場にあった人が書いたものということになり、信憑性はかなり高いと僕は思った。

本の内容は、終戦後すぐの時代から日本の歴代内閣を振り返り、その間の国際関係上の主な出来事を、日本とアメリカとの関係を軸に見直していくというものだ。吉田茂の頃から、最近の民主党が政権党に就いた内閣までつぶさにその足跡を辿ってあるから、なかなか読み応えのあるぶ厚い本なんだけど、高校生にも分かるように書いたという文章はとても読み易く、寝る間も惜しんで夢中で読み込んでしまった。

今の高校生はどうかわからないが、僕らの時代の日本史の授業は、戦後史にはほとんど触れずに終わってしまった。だから、」戦後政治の流れについて、僕はこの歳になってもよくわかっていない部分が多いにことを自覚している。それが、日本の戦後史を読み説くキーワードとして、著者のいう「対米従属」か「自主独立」かという視点を取り入れると、頭の中でバラバラになっていた政党の変遷や外交・軍事、それに産業振興に関する諸々の出来事の意味合いが、とてもクリアに理解できていくのを感じた。

本を読むと印象ががらっと変わる首相も多い。僕的には、岸信介や田中角栄、それに鳩山由紀夫なんかの見方がかなり変わってしまった。一番驚いたのは、渋谷陽一にそっくりな(笑)、岸信介。この人は安保改定闘争時の首相だった印象があるせいか、ずっとアメリカ従属の人だったと信じ込んでいたんだけど、実は戦後敗戦国として結ばされた条約の対米従属的な色合いを払拭しようと、かなり力を重ねていたらしい。
まあ、歴史ってのは、最低でも100年経たないとほんとのことは見えてこないって言いますからね。日本の場合は、戦争に負け、アメリカの統治下から戦後が始まったわけで、真実を知ることイコール自虐的近代史になる怖さもあり、余計に真実を見ようとしてこなかった部分もあったんじゃないだろうか。なんとなく、こういうことを真剣に調べていくのはタブーになっちゃってるような空気があったのを感じる。

だが、そういったムードが、このところちょっと変わってきたように僕は感じるのだ。他ならぬ自分自身がそうですから…。
個人的な契機は、やはり3.11だった。故郷を襲った原発事故から受けたショックは大きく、同時に自分がこの方面に関して、いかに無知であったかに気が付いて愕然とした。そして、遅ればせながらも電力業界や原子力発電に関するさまざまな本をむさぼるように読み漁ったのだ。その結果、ぼんやり思ったのは、そもそもこんな狭い国土に常軌を逸した数の原発が出来てしまったのは、結局、戦後の政治や産業復興のやり方に問題があったんじゃないかということだったのだ。
きっと、僕以外にもそんな人が多いんだと思う。それがこの本の驚異的な販売数に結びついたのではないだろうか。

正直言って、こういう本をブログで紹介するのはどうなのかっていう気持ちもないではない。だが、同時に3.11以降の世界で生きる時、もはやこういうことから目を逸らすことはできないように思うのだ。僕は音楽を聴いて生きている。音楽がなければ生きていけない。これからも、そんな自分であり続けたい。そんな暮らしを続けていくためには、こんな時代なんだから、生臭い政治や社会のあり方にも関心を持たざるを得ないのではないか。僕の思いは、結局はそういうところに収束されていってしまうのだ。

2012年8月15日 (水)

【本】東京プリズン / 赤坂真理(著)

Tokyopri_2すでに池澤夏樹や高橋源一郎が書評で言っているように、これは近年稀に見る大作だ。少なくとも、これが今後赤坂真理の代表作として長く語られていくであろうことは間違いないだろう。本の帯には「すべての同胞のために、私は書いた―」とあるが、この言葉にはいささかの曇りもない。誰もがためらってしまうテーマを正面から取り上げた作者の覚悟がみてとれる。そのテーマとは…。「天皇の戦争責任」だ―。

このこれまで誰もがタブーにしてきた壮大なテーマを扱うため、赤坂は一人の少女を主人公に設定した。1980年、15歳のマリ。彼女はこの歳でアメリカの北の端メイン州の高校に留学することになる。彼女をアメリカに送ったのは「母」。だが、そもそも彼女は、なぜ母が自分をアメリカに送ったのかもわからず、異文化の中で孤独と困惑に耐える日々を送ることになった。異国の北の果てで、彼女は自身が日本人として存在している意味を考えざるを得ない様々な出来事に出会うのだが、後日、作者のインタビューを読んで、この出来事の大部分は作者が実際に体験したことだと知り、驚いた。この作家の小説はどれも多分に私小説的なのだが、今回はその集大成、自伝的な匂いさえ感じてしまう。
その実体験に、赤坂真理は小説家ならではの回路を接続した。1980年ごろのマリ、2009年から11年、今現在のマリ、それぞれの視点を設定して、主人公がその間を行き来できるようにしたのだ。また、時にはそれが「母」の視点となり、主人公と入れ替わりもする。様々な時代の「私」が時空を超えて交信しあうのは、ある種SF的な手法であり、この小説の世界に入り込めるか否かはこのちょっと強引な手法が受け入れられるか否かにかかっているかもしれない。
因みに僕はすぐに受け入れた。というか、こういったダイナミックな手法を駆使できるのは、小説という表現形態ならではだ。ドキュメンタリーでもノンフィクションでも実現できなかったタブーへの踏み込みがこれで可能になったのだ。小説が本来あるべきパワーを感じ、興奮しながらページをめくることとなった。

クライマックスは後半だ。指導教官のスペンサー先生がマリに課題を与える。「昭和天皇には第二次世界大戦の戦争責任がある。」というテーマでクラスメイトとディベートをせよ…。もちろん、ディベートだから戦争責任があるかないかを断定はしない。あくまでもルール上での討議。だが、これは言ってみればアメリカの土俵に上がって、あっち側のルールで行う模擬裁判に他ならない。
読んでいて、僕はなんとなく後ろめたくなった。このテーマは、実は誰もがうすうす気がついているのに考えないようにしていることに他ならない。そして、考えなかったのは僕だけではないのだ。僕も、僕の親も、学校の先生も、戦後日本はずっとこれを考えることを避けてきた。その、戦後を正しく通ってこなかったツケが今になって一気に吹き出ているのではないか。憲法、バブル経済、そして3.11…。ディベートは昭和天皇の戦争責任というテーマではあるが、それぐらい広範なことまで示唆してしまっていた。

これまで、僕は赤坂真理の小説はとても“痛く”、“寂しい”と感じてきた。彼女は、時代の痛みや喪失感など、物語になり難いものを、自分の身体を通すことによって言語化してきた作家だと思う。だから彼女の作品は全てにおいて私小説っぽく、肉感的な手触りを持っている。そのすべてのルーツが「東京プリズン」にあるのではないかと思った。あまりに大きく、あまりに痛いテーマであるが、そこにあえて踏み込んだ彼女の勇気を僕は買うし、紛れも無い純文学の小説家としての覚悟と心意気を見た。
うーん、終戦の日に(僕は「終戦」ではなく「敗戦」だと思うが)ふさわしい本を読んだなあ…。だけど、あまりに大きく消化しきれないや(苦笑)。これは時間を置いてもう一度読んでみたい。

2012年7月30日 (月)

【本】さよならクリストファー・ロビン/高橋 源一郎(著)

Cimg0327_2

この本は、高橋源一郎が3.11震災前後に書いた数種の短編から構成された連作集だ。
書かれた作品は、どれもまるで子供向けの寓話のよう。とても読み易い。が、ぼけっと読んでると何を言いたいのかよくわからずに終わってしまうことになるだろう。いつもの高橋の小説同様、この連作集においてもストレートにメッセージを発信したような作品はどこにも見当たらないのだ。「くまのプーさん」や「鉄腕アトム」まで引っ張り出し、相変わらずサブカル臭い文体で世界が展開されていく。平易な文章。あるようなないようなストーリー。すらすら読めるのに不条理なことこの上ない世界が展開されるのは、高橋源一郎のいつものやり口だ。

しかし、読み進むにつれて見えてくるものがある。この連作集は、どの物語においても「失われていくもの」が主題になっているのだ。そして、自分を囲む多くのモノや時間が虚無へと姿を変えつつある中、登場人物たちは自分の存在理由を必死に探している。これは、3.11後の世界のメタファーだと僕は受け止めた。あの日以来、僕らは気付いてしまったのだ。目の前にあって当然だと思っていたモノや人たちが、2分30秒後にはあっさり失われていくのかもしれないというリアリティに…。もしかしたら、現実世界は3.11前に書かれた牧歌的な小説なんかよりもはるかに不条理で、僕らは運命の紡ぐ巨大な物語に翻弄されたただのコマなのかもしれない。「さよならクリストファー・ロビン」を読んでいると、そんな錯覚に囚われてしまう。

しかし、それでも僕らは生きていかなければならない。すべてが崩れ落ちていくかもしれない世界の中でも、平気な顔で朝食を食べ、きちんと仕事人としての役目をまっとうし、家に帰ったら良き家庭人として家族に笑いかけなければならない。どんなに絶望しても夢を見続け、もし僕らが巨大な物語のコマであるとしても、それならそれで、今度は自分で自分の物語を創っていかなければならないのだ。高橋が6つの小説をとおして読者に語りたかったのは、そんな覚悟なんじゃないだろうか…。

3.11東北大震災とそれに伴う原発事故は、多くの表現者に影響を与えた。
3.11の難しいところは、これが単に大いなる悲劇として語るだけでは済まされない複雑な複合災害であり、それを語る時、僕らはこれまであえて目を逸らしてきた闇の存在を認めなければならないという点にあると思うのだ。これは表現者だって同じ。いや、その影響力を考えた時、語り難い闇にあえて光を当てるということは一般人以上に体力がいることだと思う。いまや闇の存在に日本人の多くが気付いているというのに、現時点で時代の併走者であるべき表現者からそれに関する表現があまり生まれてこないのは、そういったことが原因なのだと僕は思っている。

そんな中、高橋源一郎は機会あるごとに3.11に言及してきた。その飄々とした容貌に反し、高橋は一貫して小説家としての立ち位置を見失わず、3.11以降の日本社会を覆う不穏な空気と向き合ってきた。

「世界は言葉でできていて、私たちはみな他者の物語の登場人物である」

これはある意味、圧倒的な現実を前にした表現者・高橋源一郎の絶望でもあると思う。だが、たとえそれが絶望的な戦いであろうとも、高橋は小説家として「虚無に抗う物語」を書かなければならず、その行為自体が自身の存在意義であると確信しているに違いない。

大切なもの、偉大なもの、愛しいものは、みんな消えてしまった。壊れやすいものも、小さなものも、みんな。けれど、わたしには、まだ、するべきことが残っているわ。・・・さあ、わたしの仕事をしよう。何が起ころうと、いままでもそうして来たように。いつか、あのドアを、大きな帽子をかぶった男や、スーツを着たウサギや、トランプの女王さまがノックする時が来るまでは。

そうなのだ。
オレにもやるべきことが残っている。何が起ころうと、今までしてきたことを止めるわけにはいかないのだ。

2012年7月23日 (月)

【本】わたしを離さないで/カズオ・イシグロ(著)

 

Cimg0319

この時期にこの本と出合ったことに、僕はある種の運命を感じざるを得ない。
カズオ・イシグロ。その名前はいろんなところで目にしていたのだが、作品を読んだのは初めて。昨年、この小説が映画化されたのを知って興味を惹かれ、本は買ってあったのだが、直後に震災が起きてしまって読む機会を逸し、ずっと書棚に仕舞い込まれたままになっていたのである。先週、福島に帰る旅の合間にようやく表紙を開いたのだが、この小説で描かれている世界は、今僕の立つ現実世界のメタファーそのものであることに気付いてしまい、呆然としてしまった。

「わたしを離さないで 」では、クローン技術や臓器移植が重要なモチーフとして描かれている。そのため、出版当初はこれを一種のSFやミステリー小説であると感じる人がいたり、ネタバラシと言われることを恐れる書評家が、どこまでストーリーラインを書けばいいのか悩んだりもしたそうだ。確かにこのモチーフは衝撃的だし、主人公たちを待ち受ける運命が明らかになる際は背筋が凍る。
だが、僕はカズオ・イシグロが本当に描きたかったことは、近未来に起こるかもしれないクローン技術や、そこで生じる倫理観なんかではないと思うのだ。イシグロは、自分の想定したこの奇怪な世界をとおして、僕たちの住む現実世界を反転させ、自分の人生が変えようもない運命に捉えられていると悟った時、人はその閉ざされた世界の中でどう生きていくことができるかということを浮かび上がらせようとしたのではないかと思う。

最近、時々僕は考える。結局のところ、僕らの人生というものは、「死」の局面を迎えた時に、それまで生きてきた「生」と相殺できるか否かということに収束されていくのではないだろうかと…。これは、ここ数年相次いだ好きだった人物の死や、昨年の大震災を経て芽生えてきた考えでもあるが、「わたしを離さないで 」を読むことによって、この思いはまずますくっきりと輪郭を帯びてきた。

誰でもそうだと思うが、若い頃僕は「死」が怖かった。日々の暮らしの中ではなるべく「死」を意識しないでいたかったし、「死」をできる限り自分から遠ざけたいと思っていた。だけど、明日の自分にどんな未来があるかなんて誰にもわからない。もしかしたら、今日の午後、僕の喉に癌が見つかるかもしれないし、明日の午後には大津波で流されてしまうかもしれない。ここ数年の出来事から、僕は「死」というものが、あんがい普段の生活の近くに居座っているということを知ってしまった。それはもう、事実としてどうしようもないことなのだ。
でも、どんな状況であれ、人は「生」の輝きで「死」と対峙し、「死」の恐怖を克服できると僕は信じたい。考えてみれば、古今東西、太古の昔から人間はそうやって「死」と向かい合ってきたではないか。宗教に多く見られる死後の世界を信じる考え方もそうだし、芸術家が絵や文章で自分の道程を残してみたりするのも「死」との対峙のひとつだと思う。いや、何もそんな大袈裟な例を挙げなくたって、人はそれぞれの美しい記憶や思い出、それに人生における目標を達成しようと汗を流すことで、「生」と「死」を相殺しようとしてきたのではないだろうか。

「わたしを離さないで 」に出てくるヘールシャムの子供たちは、あらかじめ終わりが決められた奇怪で哀しい運命の中、精一杯それぞれの青春を生きている。その描写は、時に胸が痛くなるほど純粋で美しい。そして、僕が何よりも心を打たれたのは、この小説の中で、待ち受けるものが希望のない未来であったとしても、人は真実の愛を見つけることができ、その愛は「死」をも相殺できる大きな力を持っているということが確信できたことだ。
実をいうと、最初僕はこの小説に出てくる登場人物たちは、自分の運命や役割に対して、あまりにも無抵抗で消極的すぎると思った。だけど、読み進めていくうちに考えが変わっていったのだ。結局、人という生き物は自分たちに与えられた運命を引き受けて生きざるを得ないのだと思う。ただ、運命を引き受けることは、運命に屈するという意味ではない。数奇な運命を嘆く前に、今ある世界の中で「生」の証を探し続ける…。そんな生き方の美しさを、カズオ・イシグロは、この小説をとおして静かに語りかけているのだ。

それからもうひとつ。これは子供の目から大人の世界を俯瞰した小説だとも言えるのではないか。
ヘールシャムにいる子供たちは、誰も外界を十分に理解していない。そして外から流れ込む情報は大人たちから慎重にコントロールされている。つまり、彼らは何不自由なくすくすくと成長できる環境にありながら、本当の真実、彼らを待ち受ける悲しい未来はまったく知らされていないのだ。やがて、子供たちは成長するにつれて残酷な運命に気付き始め、周りに起こる小さな出来事を拾い集めて意味を考え、子供同士でいろいろ話し合うようになる。小説ではエキセントリックな設定になってはいるが、これは考えてみれば誰もが大人になるプロセスの中で、ある程度通過してきていることなのではないだろうか。
子供は子供であるが故に大人の世界が理解できない。そして、成長するにつれて何かを知り何かを諦めていく。それが大人になるということなのだ。予供は誰でも大人になり、歳を取ることを受け入れる。そして死は不可避であることを悟る。そして、時と引き換えに身体も精神も劣化していき、やがて静かな死を受け入れる。ヘールシャムの子供たちは、その過程で「提供」というおぞましいことを行わなければならないため、僕たちの辿る人生よりも幾分早く収束することになってしまうのだが、その道程は、実は僕らが子供から大人に向かう上で経験するプロセスとそんなに変わらないのではないか。本を読み終えた今、僕はそんなことも思う。

勘のいい人はもうお分かりいただけたと思うのだけど、僕はこの小説に出てくる登場人物たちの生き方を、震災以降の日本人の生き方、もっと言えば放射能の低線量被曝という世界で誰も経験のない事故を経験する運命にあった、わが故郷に生きる人たちと対比しないわけにはいかないのだ。
今、福島の人々は、リスクの存在を認識しつつ、運命に負けないで自分たちの暮らしを取り戻そうと必死に生きている。そして、そこに暮らす子供たちも…。
僕は思う。子供たちの目には、大人たちが話す低線量被曝のリスクや原子力発電の是非、そして何より彼らが生まれ育ち、今暮らしている福島の未来が、どのように映っているのだろうかと…。僕は、「わたしを離さないで 」を読むまで、3.11以降の世界を子供の世界から俯瞰するということにまったく気付かなかった。今まで僕はずっと大人の目線で3.11以後の世界を見てきてしまった。だが、未来を担うのはもはや僕らの世代ではないのだ。であるならば、未来を担う子供たちが「生」の証を探せるようにしてあげることこそが、僕らが今本当にやるべき自分の「死」との対峙なのではないか。そんなことを強く思ったのである。

より以前の記事一覧

フォト
2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ