若かった頃、ミュージシャンや作家といった人たちは、自由人の象徴だと思っていた。
大人になるにつれ、人は誰もが夢と現実に折り合いをつけ、決められた器の大きさに自分の身を合わせるような生き方をせざる得なくなっていく。そんな生き方に少し疲れた時、昔と変わらない笑みを浮かべて飄々と生きている自由人たちの存在は、それだけで僕にとってある種の励ましになっていたのだ。
だから、こういった報せを聞くのは辛い。すごく辛い…。それは、自由の旗のもとに生き続けたセンパイが、最後はこういう結末を選ばざるを得なかったということになってしまうのだから…。
今日はCHABOの「プレゼント」を繰り返し聴いている。
一瞬の流れ星は、あっけない輝きでしかなくても、瞬間の煌めきはずっと心に残る。結局、僕らはその煌めきの一つひとつを大事に繋ぎながら生きていくしかないのかもしれない。
自由ってなんだろう?本当の自由ってのは、僕ら自身が僕ら自身のそれぞれの暮らしの中で見つけていくしかないものなのかもしれないと、今思う。
島田さん、島田さんにとっての自由って何だったのですか?
生き続けて欲しかった。どんなカタチでもよかったら、生きていて欲しかった…。
悲しいよ。
えーと、この前書いたレッド・ツェッペリン話の続きです。
そもそも僕は、なんで2012年の今頃になって、ツェッペリンに熱を上げているのだろう?
それは、このバンドのアルバムを聴いていると“ロックは進化するもの”という、今ではほとんど忘れられている概念を思い出すからだ。
今の若い人たちに言ってもピンと来ないかもしれないけど、80年代初めぐらいまで、ロックってのは最先端の文化を反映したものという意識があった。ファンもミュージシャンも、ロックバンドってのはアルバムを重ねるごとに変わっていくのが当たり前だと思っていたのである。プログレッシブ・ロックなんていう言葉があるけど、僕に言わせれば、70年代以降に出てきた優れたロックバンドは、多かれ少なかれみんな実験的で前衛的だ。だいたい、ブルースやR&Bなどをルーツにして出てきたロックだけど、そこに安住してると保守的だと叩かれたんだから、昔は。新しい試みにトライしているバンドこそ評価が高く、ブルースをただ基本に忠実に演ってるだけでは、ロックバンドとしては物足りないと思われていたのだ。
みんな忘れてるみたいだから言いますけどね(笑)、80年代初めまでは、ローリング・ストーンズなんて無茶苦茶保守的なバンドと言われていて、今よりずっと評価が低かったのだ。
ところが、90年代初めからそういう流れがだんだん変わってきた。一言でいうと“進化”より“深化”が重んじられるようになってきた。表面的な音の変化より、音の完成度が評価されるようになってきたと言い換えてもいいかな。
こうなったのには、いろいろな理由があるんだろうけど、僕が思うに、ロックがあまりにも細分化されて難しくなっちゃったからだと思う。だいたい、新しい試みっていったってだんだんネタが無くなってくる。そのうち、最先端と呼ばれるロックは、インダストリアルとかアンビエントとか、根暗で難解なものになってしまった。いわゆる頭で聴く音楽ですな。最初は僕も三毛に皺を寄せながら、一生懸命こういうのに馴染もうとしたけど、ロック本来の楽しさがあんまり感じられないから、早々に放り投げてしまった。ルーツ帰りした骨太なロックが脚光を浴びるようになったのは、そうしたことへの反動ではないかとワタシは思うのですよ。
加えて、CDの普及に伴う旧譜のデジタル化ラッシュ。これは名盤と呼ばれるアルバムにもう一度光を当てる機会になったのではないか。タイミングよく(?)ロックファン自体が高齢化してきて、僕みたいにいい加減新しいバンドを追いかけるのも疲れたから、昔のやつを良い音で聴いてりゃいいやと思うロックファンが増えたのも大きいだろうな、きっと。
ま、今もだいたいロックシーンはこういう空気でしょ。それはそれでいいんです。
でも、実は昨年あるバンドを聴いて、昔の“ロック進化論”が、僕から完全には抜け切っていないことに気付かされてしまったのだ。
そのバンドはですね、今さらって言われちゃうかもしれませんが、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(笑)。ほんとはとっくに気が付いてなきゃいけなかったんですが、彼らがブレイクした頃はちょうど新しいバンドを追いかけなくなった時代だったからなあ…。
レッチリを聴き出したのは、実は震災が大きく影響している。あの震災のショックで、僕はちょっと音楽不感症になりかかってしまった。精神的な動揺が大きすぎ、何を聴いてものめりこめない。でも、音は欲しかった。それも中途半端なビートではなく、身も心も焦がしてしまうような強烈にリアルな世界観で僕を叩きのめしてしまうような音が欲しかった。結果辿り着いたのが、レッチリとU2だったんだな、これが。
当たり前だけど、U2とレッチリは全然やってる音楽が違う。でも、僕はこの2バンドに共通すものを感じた。それは、このバンドにしかない圧倒的にオリジナルな音世界を持っているということと、アルバムごとに常に変わろうとする姿勢だ。こういうニオイが感じられるロックバンドは、今本当に少ない。
レッチリのアルバムなんて、一曲一曲、これでもかと言うぐらいにアイディアが詰まっていて驚いてしまう。テクも凄いのに、本人たちはずっと馬鹿キャラのまま(笑)。この開き直りには凄みすら感じてしまう。
えーと、なかなかツェッペリンの話が出てきませんが(苦笑)、僕はレッド・ホット・チリ・ペッパーズの一連のアルバムを聴いていて、無性にレッド・ツェッペリンが聴きたくなってしまったのだ。彼らはツェッペリンに影響を受けていることを公言しているから、単純に似てるってこともあるんだけど、それ以上に共通している感覚がある。それは“ある種の強引さ”だ。どんな音楽ジャンルであろうとレッチリ流のファンクに仕立てる強引さ、どんな音楽ジャンルであろうとツェッペリン流ハードロックに仕立てる強引さ。これです。
たとえばですね、レッド・ツェッペリンの楽曲で「デジャ・メイク・ハー」というのがある。これ、レゲエの影響大な曲なんだけど、普通のバンドはこういうアプローチはしないと思うんだ。もう少し向こうの領域に足を踏み入れて演奏するのが普通ではないか。でも、彼らはそんなことは全く考えてない。そういうやり方は彼らの考えるロックではないからだ。レゲエを演奏するのではなく、レゲエをちょろまかす(笑)。向こうの服を借りてなりきったふりをするのではなく、向こうの食べ物をたらふく食べて、強引に自分の嗜好を変えていくのだ。
結果、ボンゾのドラムはいつも以上にデカく響き渡り、ジミーのとぼけた音色のギターが不思議なタイミングで絡む一品が出来上がった。こういうヘンタイ度が高いロックが、僕はたまらなく好きだ。
あんまり強引だから、時として破綻ギリギリのものもあるけど、そもそもロックってこういう強引で不完全なものだったんじゃないだろうか。
音の古い・新しいはあるかもしれないが、こういう姿勢は時代と全く関係なく色あせない。レッド・ツェッペリンの無邪気なまでの強引さは、ある種のミュージシャンシップの極みではないだろうか?こういうバンドは、今はもちろん、70年代まで遡っても本当に少ないと僕は思うのだ。
ええ~~~!うっそ~~~ん!!(苦笑)
嬉しいけど、なんだか複雑な気分なのだ、ワタシは。
重要なのは、これがジミー・ペイジ名義でもペイジ&プラント名義でもなく、あくまでも“レッド・ツェッペリン”の名を冠してリリースされること。つまり、これはレッド・ツェッペリンのマスターピースのひとつとして、今後ずっと残ることになるのだ。それは、聴き手側も当然それ相応のクオリティを期待してしまうってことでもある。
それから、この音源&映像は、オリジナルメンバーではない人間が加わった初めてのツェッペリン作品ということからも重要。まあ、ジェイソン・ボーナムはジョン・ボーナムの実の息子だから、人道的には許容範囲かもしれないけど(笑)、ロックはメロドラマじゃないんだから(苦笑)、音にはシビアに向かわざるをえない。ジェイソンがオヤジにどこまで肉薄しているのか、果たしてボンゾ抜きでツェッペリンを名乗っても遜色ないぐらいのプレイを聞かせているのか。僕的にはそこがこのライブの最大のポイントだと思っている。
実は、このリユニオン・ライブは評論家筋からはけっこういい評価を得ているのだ。でも、実際に見た人は非常に少ないからねえ…。僕もこの日のライブをブートレッグで聴いているのだが、当然そんなものではこの日の詳細はわからず、ずっと判断を保留してあった。それが遂に判断を下さなければならなくなってしまいました。うーむ、嬉しいような、怖いような…(苦笑)。
ただ、僕はジミー・ペイジのツェッペリンに対する審美眼を信じてもいる。ライブエイドをはじめ、これまでにも何度かあったリユニオンの音源が結局公式で出てこなかったのも、それが彼の思うレベルまで達していなかったからだと僕は解釈しているのだ。
それが、今回は音も映像もパッケージされて劇場公開まであるっていうんだから、イコールそれ相応になっていると僕は信じたい。
なんだかんだ言っても期待してますよ、やっぱ。
鋤田正義さんの一連の写真展を観ていて、久々にこれを聴きたくなった。デヴィッド・ボウイのベルリン3部作の一つ、「LOW」だ。
これは僕が一番好きなボウイのアルバム。初めて聴いたのは、たぶん18の時だったと思う。ブライアン・イーノと組んで作られたサウンドは、シンセサイザーを多用したボーカルの比重が極端に少ないもの。B面なんか全部インストルメンタルで、荒涼としたシンセ・サウンドが延々続く。ヒットしたシングル曲があるわけでもなし、一聴するとかなり地味な印象を受けるかもしれないが、僕は一発でこのアルバムの世界に魅せられたんだよなあ…。
デヴィッド・ボウイは時代時代で様々なキャラを身に纏い、時代時代で自分を目まぐるしく変えていった。だけど、「LOW」に関しては何者にも化けていない裸のボウイの姿が窺える。この頃のボウイは、アメリカ進出に浮かれた代償としてドラックで心身のバランスを崩してしまい、自己崩壊の一歩手前まで行っていたとされる。すべてをやり直そうとしたボウイは、東西冷戦の象徴だったベルリンに滞在し、あえて厳しい環境に自分を置くことで人生を見つめ直したのである。実際、A面に集中している歌詞の入った曲やタイトルを見ると、“オレはいつも同じ車で事故を起こしてしまう”だの“人生の短さ”だの“新しい町で新しいキャリアを…”だの、どれもこれも自分の今の状況を憐れんでいるようなものばかりだ。
最初に書いたが、僕はこのアルバムに一発で惹きこまれてしまった。
個人的なことを言うと、僕がこのアルバムを初めて聴いたのは、大学受験に失敗して鬱々とした浪人生活を送っていた頃だった。だから、新しい環境を手に入れたいともがく心境と、アルバム全体に漂う暗いタッチが、自分の当時の環境とダブり、比較的感情移入しやすかったのかもしれない。
周りのロックファンに聞いてみても、このアルバムに関しては、“聴きこんでからいいと思うようになった”みたいな意見はあまり聴かないなあ…。最初に聞いて“?”と思ったか、一発で好きになったかのどっちかで、そのイメージをずーっと持ち続けてる人が多い。たぶんそれは、このアルバムに収められた曲が、万人向けの解り易い次元まで作りこまないまま、原石に近い状態で収録されているからだと思う。
一般的にはこの次の作品「HEROES」が、ベルリン3部作の最高傑作とされているが、僕的にはあれはもう“立ち直ってしまった後”のものなのだ。確かに完成度は「HEROES」の方が高いし、タイトル曲はロック史に残る名曲だとは思う。だけど、ボウイの個人的な葛藤が赤裸々に出てるのは明らかに「LOW」の方。「RODGER」になっちゃうと、もはや余裕すら感じられるようになっちゃうし…。
「LOW」は、ある意味聴き手を突き放したような冷たさをも感じるのだけれど、こちらから当時のボウイの感覚にシンクロするつもりで聴いていくと、何物にも変え難い耽美的な世界が広がっていくのを実感できる。キャリアの長いデヴィッド・ボウイだけど、このアルバムほど“ヒリヒリ”感が感じられるものは他にない。
僕はこのアルバムのジャケットも大好きだ。
オレンジのバックに、ダッフルコートの襟を立てて髪をオレンジに染めたボウイの横顔がぼわ~っと浮き上がっている。カラーコーディネートの常識を無視しているかのような、奇妙な色彩感覚なのだが、アルバムのサウンドはこのビジュアルイメージそのものとしか言いようがない。常軌を逸したドラムの音量バランスも、調子っぱずれなギターのリフも、シンセ音の浮遊感も、この滲んだオレンジのジャケットにじわ~っと染み込んでいくような感じ。よくもこんなデザインを思い付いたものだと思う。
実は、この衣装は、同時期に撮影されたボウイの主演映画「地球に落ちてきた男」のビジュアルをそのまま使っている。この映画の冒頭で、地球に落ちた異星人役のボウイは、濃い緑のダッフルコートのフードを被ってふらふらと荒野を彷徨うのだが、ありふれたダッフルもボウイが着るとほんとに異星人が着ているみたいになってしまうのだ。
ファッションにちょっと詳しい人ならすぐにわかると思うけど、実は襟の付いてるダッフルコートってのはあんまりないんだよね。僕は、このジャケットに触発されて襟付きダッフルを探し回ったことがあるんだよなあ…(苦笑)。結果買ったのはブルックス・ブラザースの黒のダッフルだった。
もう10年以上も前の物だけど、冬になると今でも時々このダッフルに袖を通す。
まあ、偏見持たずに見てみてよ。
なかなかイイと思いませんか、これ。
このPV、実は監督が「歩いても 歩いても」や「奇跡」の是枝裕和さん、カメラを回してるのが鋤田正義さんという豪華な布陣で撮られている。最近まで僕もこの映像の存在を知らなくて、鋤田さんの写真展に行って初めて見たんだけどね…。
僕の中では、AKB48なんてもうモーニング娘以下の存在で、歌手でもなんでもないとまで思ってたんだけど、これはちょっとヤラれたなあ…。
これを見て、やっぱりAKBから一番初めに一人立ちした前田敦子ってのは突出してると思った。鋤田さんも、彼女たちと会って、前田敦子はあまり笑い顔を見せず陰影があるから芝居向きだと思ったそうだ。だったら、PVの中には彼女の一番綺麗な笑顔を撮って入れてあげようと閃いたらしい。それが、桜が散る中で亡くなった友だちと前田が微笑み合っているシーンだ。これはほんとに素晴らしい。青春真っ只中の女子高生の屈託の無さと、少女が大人になる直前の哀しさなんかも微妙に表現されているようで…。前田敦子と鋤田さんが共鳴し合ったからこその名シーンだと思う。
たぶん、リアルに卒業間近なニキビ面の高校生たちなんかが見ると、このPVは僕らおっさん世代以上にぐっとくるものがあると思うんだ。これからの人生で彼らが壁にぶつかった時、この映像を思い出して踏み堪えるようなこともきっとあるに違いない。それは素晴らしいことなんじゃないかなあ…。
AKB48という巨大なシステムの中で、いったいどれだけの大人たちが蠢いているものなのか、僕には想像も付かない。たぶん、その中には金のことしか頭にないクソみたいな連中も大勢いるんだろう。
だけど、売らんかなの歌ばかりが溢れているように見えるこの時代においても、さまざまな制約と抗いながら人々の心を震わせるような表現を作ろうと頑張っている人たちが確かにいることを、このPVは教えてくれている。
今年の夏はレッド・ツェッペリンに異常にハマっちゃってる。何が楽しくて、クソ暑い季節にこんな暑さ倍増するような音楽を聴いてんのかと自分でも思うんだけど、ハマっちゃったものはしょうがないよなあ(苦笑)。
そもそも、僕はロックに目覚めた中坊時代まで遡っても、ツェッペリンにはそれほど夢中になった時期はないのだ。もちろん、一ロックファンとして彼らの代表曲は一応知ってるし、73年のライブ盤なんかは高校時代かなりの頻度で聴いていた。だけど、長い間僕の中でのツェッペリンの位置づけは、ローリング・ストーンズやビートルズなんかよりもワンランク下だったんだよなあ~。
ロック思春期の頃、僕がツェッペリンに対して抱いていた印象は“とにもかくにも大袈裟なバンド”(笑)。まず、曲が長いじゃん(笑)。ストーンズなら3分で済ませるところを、ツェッペリンは15分もかけて演奏する。その大袈裟さが当時はとてもかったるく思えた。おまけに音は馬鹿でかいし、ボーカルは女みたいな金切声(苦笑)。R&R的スィング感にも乏しいし、やたら長いギターソロをとるのもパンクやニューウェイヴ全盛の耳には違和感があった。ルックスも髪が長くてなんだか中世のインチキ貴族みたいだ(笑)。やることなすことなんでこんなに大袈裟なんだろうと当時は思っていた。でも僕だけじゃなく、80年代当時のロックファンはだいたいそんな感じだったんじゃないかと思う。はっきり言うと、80年代にレッド・ツェッペリンを聴くことはアナクロだったのだ。
そんな世間の評価が変わってきたのは、90年代に入ってフー・ファイターズとかレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとか、当時の若手バンドがツェッペリンに対してのリスペクトを口にし始めてから。それをきっかけに世界規模でツェッペリンの再評価が起き、過去の音源や映像集のリリースによって、日本でも再びツェッペリン人気が盛り上がってきた。
僕自身もツェッペリンの見方が変わり始めたのは、この時期からだ。きっかけは「レッド・ツェッペリンDVD」。これは再評価が高まった時期に満を持して出されたお宝映像満載のセット。特に初期のライブをまるまる収録したパートはもの凄い。これを観ると、ジョン・ボーナムというドラマーがいかにとんでもない奴だったかが良くわかる。もう、ライブが始まる前に軽くセットをダダダダン!って叩くだけで空気が変わっちゃうのだ。で、いざ曲が始まると、4人のメンバーが殴り合うように音をぶつけ合い、バンド全体がぐんぐんテンションを高めていって、突然ばたっ!と終る。もう、唖然。とんでもないものを観てしまったという感じだ。もはや、曲がどうとかアレンジがどうとかいうレベルじゃない。4人のミュージシャンが、今できる最高のことを全力でやっている感じがビンビンに伝わってくる。この本気度、ガチなミュージシャンシップが本当に素晴らしい。これだけ集中度の高い演奏をするバンドは、2012年の今でも今古今東西問わずあまりいないと僕は思う。
で、今年の夏は改めてこれまで聴いてなかったツェッペリンのアルバムを買ってみた。そしたら、スタジオでも凄いことやってんだよね、彼ら!これまで僕は、レッド・ツェッペリンっていうバンドは、クリエイターというよりもどちらかというとプレイヤー的な色の濃いミュージシャンの集合体だと思っていた。だけど、アルバムをじっくり聴くと、実はスタジオでもいろいろ試行錯誤しながら彼らなりの音楽を極めようとしていたことが良くわかる。
レッドツェッペリンの残したスタジオアルバムは、全部で9枚。それぞれに毛色が違うんだけど、そのどれもがレッド・ツェッペリンがやっているとすぐにわかるような仕上がりになっているのだ。このバンドがブルースと英国トラッドをベースにしていることはすぐにわかるんだけど、手がけている音楽はファンクやらレゲエやら意外に幅広い。でもツェッペリンに関しては、実はどんなジャンルを演っているかはあまり関係ないような気がするんだよな、オレは。
耳をつんざくほどのデカくて歪んだ音。変拍子の多様。止まったり始めたりを繰り返しながら続いていく独特のビート。パワー全開で押しまくるボーカル。凝った音色のギタートーン。一見、ピッチがずれてるんじゃないかと思わせるようなヘンなメロディー。どんなジャンルをやっても、ツェッペリンの曲はこれらのどれかにだいたい当てはまる。なんつうか、レッド・ツェッペリンの音楽には強烈な記名性があるのだ。
アルバムを聴いてるうち、僕はツェッペリンとストーンズの最大の違いに気が付いた。
僕らは後追い世代だから、ロックのスーパーグループっていう範疇で、ストーンズ、ビートルズ、ツェッペリン、ピンクフロイドなんかを一絡げにして語りがちなんだけど、実はレッド・ツェッペリンはストーンズやビートルズなんかよりもかなり後からでてきたバンドなんだよね。60年代初期から活躍するストーンズやフーがロックの第一世代だとすると、68年デビューのツェッペリンやキングクリムゾンなんかはその次の世代にはっきり色分けされる。この時期はロックが目に見えてぐんぐん成長していった時代だから、8年の月日はかなりデカいと僕は思うよ。
そのせいか、ツェッペリンのブルースに対するアプローチはストーンズなんかとは明らかに違う。ブルースをいかにオリジナルに忠実に再現できるかを追及しているストーンズに対し、ツェッペリンはブルースを自分流に組み立て直し、如何にロックとして成立させられるかを考えながら演奏しているような感じがするのだ。
常軌を逸したデカい音も、やたら大袈裟なギターソロも、結局は「ツェッペリン印のロック」というスタンプを押すために必要なフレイバーだったのだと僕は思う。後にツェッペリンは「ハードロックの元祖」と呼ばれるようになるけど、当人達はそんなことあんまし思ってなかったと思うんだよね。4人のロック料理人たちが、集めてきた食材を存分に下ごしらえし、いっぺんに鍋にぶち込んで煮込んだらこんなのが出来ちゃいました~みたいな感じだったんじゃないのかねえ…(笑)。
言い方を変えると、レッド・ツェッペリンは70年代に初期のストーンズやフーと同じやり方をしたって、誰も注目してくれないということに早い段階から気が付いていたんじゃないだろうか。とにかく“新しい音”をやらなきゃ、と。活動期間は短かったけど、その間は次世代ロックバンドとして、常に新しいロックを作って先に進まなきゃ!と自分たちにプレッシャーをかけ続けていたんじゃないかと思う。その結果が、あの「ツェッペリン印の変態ロック」だったのだ。そう、ロック的な目で見ると、ツェッペリンの音はとても変態性が高い(笑)。だからクセになるんだけどね。
うーん、やっぱツェッペリンに関してはなかなか語り尽くせないなあ。
実はもっと書きたいことが山ほどある。この続きは近いうちに…。
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