日記

2018年11月17日 (土)

エイサーとじゃんがら念仏踊り

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「沖縄の伝統芸能エイサーの起源は、福島県いわきに伝わるじゃんがら念仏踊りであるー」。この話を初めて聞いたのは、数年前にSNSでお付き合いさせていただいているいわきのライブハウスSONICの社長、関さんにお会いした時だった。なんでも、いわき出身の浄土宗のお坊さん袋中上人が、仏教を勉強しに中国(当時の明)に渡ろうとしたが、何故か琉球に流れ着き、そのままそこに滞在して布教した際に念仏踊りを伝えたのが始まりなんだとか。

そして、先月いわきを訪れた際、地元ご出身のFBフレンド村田さんのご案内で、袋中上人の菩提寺である能満寺を訪れることができ、この話がますますリアリティを持って感じられるようになってきた。

実は、今年の春に沖縄の桜坂劇場のプロデューサー野田さんにお会いした時にも、エイサーとじゃんがらの話を何気なくしてみたところ、この話をよくご存知でびっくりしたことがある。いや、びっくりしたというより福島県出身の僕にとっては、ある種の衝撃だったのだ。だってこんんな話は福島ではほとんど知られていない。もともと僕の故郷福島市といわき市は中通りと浜通りで地域が異なり、文化もかなり違うのだが、おそらくいわきでもエイサーとじゃんがらが繋がってるなんてことを知ってる人はあまりいないだろう。

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福島県人として、この謎のお坊さんをもっと知っておかなければ…。そんな気がして買い求めたのがこの本。

いやあ、読んでみてまたまたびっくり。袋中上人は僕が思っていた以上の高僧だった。

この人、修行のために3回も明に渡ろうとしている。いずれも失敗しているのだが、それも当たり前。折しも彼が渡明しようとしていた1600年頃は、豊臣秀吉が朝鮮出兵を繰り返して諸国との関係が悪化していた安土桃山時代。そんな時に明に行こうとするなんて、よっぽど強い意志がなければできないだろう。

琉球に流れついた袋中さんは、琉球政府の高官である馬幸明にいたく気に入られ、琉球の歴史を記した本の編纂を懇願されて『琉球神道記』という大著を残している。晩年は京都に住んで布教に勤しみ、彼が復興したお寺の数々は今も残っている…。

当然だけど、安土桃山の頃の琉球は外国だ。琉球王国は中間貿易で大変な活況を呈していたというが、そこにみちのく人が一人で降り立ち、多くの民衆が帰依する信仰を起ち上げたっていうのは痛快だ。少なくとも、内弁慶と言われがちな現代の東北人とは全く違うキャラ。

だけど、このバイタリティー、新しいものに飛び込んでいく柔軟さは、今のいわきの地にも流れているような気がする。最近思うのだけれど、福島は会津・中通り・浜通りの3地方でかなり住んでる人の気質が違う。理由はわからないが、浜通りの人は三地方の中で一番新しいものに対する抵抗が薄いような気がするのだ。たとえば、常磐ハワイアンセンターのような施設は、僕の育った福島市では考えられなかったと思う。

沖縄では袋中上人の名前は有名で、2003年には渡琉400年でいろいろな催しが開かれたらしい。3.11後に浜通りから多くの人が離れた時も、移住先に沖縄を選んだ人がかなり多いと聞いた。音楽の現場では、沖縄と福島はASYLUM in Fukushimaというイベントで繋がっている。そういう見方をすれば、袋中上人の結んだ沖縄と福島の縁は今でも続いてると言えるのかもしれない。

福島、わが故郷。でも、知らないことがいっぱいあるなあ…。ちょっと福島の郷土史に興味が出てきている。

2012年11月 2日 (金)

うたかたの日々

早いなあ。もう11月かよ…。

最近はなんだかブログをアップするのがかったるくてしょうがない。ネットに繋げるのも最小限。来てるメールに一週間目を通さないなんてこともザラ。家に帰れば、即PCを起ち上げていた数年前の自分からは信じられないような堕落ぶりだが(苦笑)、リアルな生活はずっと充実しているのを感じる。

この2年ぐらいで僕は身体の組成が入れ替わってしまったみたいだ。もう、ツイッターでちまちまくだらねえことをつぶやいたり、ブログでたらたらと長い文章を書き込んだり、そういうことにはなんのリアリティも感じられなくなってしまった。
今、何よりもリアルなのは、自分の身体感覚。仕事やら家庭やら、さまざまな時間に拘束される24時間の中で、僕はたった独りで身体感覚を感じられる時間を何よりも大事にしたいと思うようになってきた。

僕にとって、走っている時間はとても大切。
今、月平均200キロ走っている。朝4時半に起きてランニングシューズを履き、暗いロードを自分の身体の感覚だけを頼りに駆け抜ける瞬間、僕は完全に孤独で完全に自由になれる。ぴんと張りつめた晩秋の冷気も、噴き出してくる汗も、何もかもが気持ち良い。
走る時、僕は音楽も一切聴かないことにしている。ただ自分の身体の奥からの声を頼りに、ペースを上げたり下げたりしながら10キロないし20キロの距離を走り切ることのみに集中する。
そんな日々を過ごしながら、時々ライブに行ったり映画を見たりする夜を挟み込んでいく。 そんな感じが今の僕には合っていると思っている。
以前は、ライブを観に行くのが日々の生活の張り合いだったりもしたのだが、今の僕はそうじゃない。今は自分の身体感覚が一番大事。他人の身体表現よりもだ。正直に言うと、ライブはあくまでも僕の日常の水平線上に起きる事象としてしか存在していないのだ。

CHABOのライブに行った。
「アウトレイジ・ビヨンド」を見た。
「希望の国」を見た。
それぞれさまざまな思いを抱いたが、それはここには書かない。何も感じなかったわけではもちろんない。ただ書きたくないから書かないだけだ。

これだけは言える。僕の身体の中の受光体は、以前とはかなり受信角度が違ってきている。もう、僕は少年の頃の感性を持ち得てはいないのだ。 だけど、以前とは違ったフィルターを手に入れて、自分自身を変え続けている。ランニングはそのフィルターの一つなのだ。

今月は25日にフルマラソンを走る。究極にマゾヒスティックな行為。だけど圧倒的なリアルが僕を待っているはず。 42.195キロを走ったとき、きっと僕の中ではまた何かが変わっているだろう。

2012年9月29日 (土)

村上春樹と山下達郎の共通性

今年の夏はたくさん本を読んだ。
何冊かはこのブログでも紹介させてもらったけど、これ以外にもたぶん15冊ぐらいは読んでいるはず。読書モードというか、この夏はたぶんそういう周期だったんだろう。

僕は、本を読むのも音楽を聴くのも大好きだけど、どっちかのモードに極端に振り切れるクセがある。だから、今年の夏みたいにいったん読書モードに入ると、音楽を聞く時間が極端に減ってしまうことになるのだ。
本を読むときに音楽を流せばいいじゃないかって言う人がいるかもしれないが、僕はそれ、ダメなんです。本を読むならなるべく静かな環境がいい(なぜか雑踏は気にならないんだけどね…)。逆に、音楽を聴く時は音楽だけに集中したい。知り合いには、雑誌を読みながら音楽を聴いたり、いつも音を消したテレビを眺めながら音楽を聴いているっていう人がいるんだけど、どうしてそんな器用なことができるのか不思議だ。
そういえば、小説なんかを読んでいて、頭の中に音楽が脳内再生されるようなこともあんまりないなあ…。僕の中では、読書と音楽ってのは完全に分断された行為になっているのかもしれない。

ただ、本を読んでいて文体に音楽的な何かを感じたり、音楽を聴いていてふと小説との同意性を感じたりすることはけっこうある。
最近感じるのは、村上春樹の小説と山下達郎の音楽との共通性だ。この二人は音楽と小説という形態の違いはあれど、表現者として多くの共通項があるように思う。
まずは作品としての完成度。最後の一ページにいたるまで精密に練り上げられた村上春樹の小説と、幾重にも音を重ねて構成されている山下達郎の音作りは、どちらも職人の域に達していると思う。しかも、両者ともに、出来上がったものが生みの苦しみが感じられるようなものではなくて、誰にでも楽しめる普遍的な表現になっているというところが素晴らしい。
また、両者の作品からは、歌詞やストーリーのような表に出た表現の奥に、さらに深く強いメッセージが籠められている点も共通している。この傾向は、特に最近の作品に関してより強く感じられるようになった。これは、村上春樹と山下達郎という二人の表現者が、今の社会に対して感じていること、思っていることがとても似ているからなのではないだろうか。

この二人は、今の時代にあってどう社会とコミットしていけばいいのかという、表現者としての態度もよく似ている。
両者とも、昔はマスコミに積極的に登場する人ではなかったのだが、最近は新聞記事への寄稿やインタビューなどを通して、自分の考えをストレートに語る機会が増えてきている。“わかってくれる人だけわかってくれればいい”から“出来るだけ多くの人にわかってもらいたい”というスタンスに変わってきているのだ。その柔らかな変遷に、僕はある種の“誠実さ”を感じている。

村上春樹は音楽好きな作家として有名だ。日本人アーティストだとスガシカオが好きだと語っていたことがあるが、山下達郎について発言したのを見た記憶はないなあ…。反対に山下達郎が好きな作家について語ったのもあんまり聞いたことがない。ただ、この二人は世代も近いし(達郎が4つ下)、絶対話が合うと思うんだ。
これは僕の個人的な夢なんだけど、いつかこの二人、対談なんかやってもらえないものだろうか?絶対に読書家にも音楽好きにも興味深いものになると思うし、お互いが触発されてまた素晴らしい作品ができたりするに違いないと思うのだ。

うん、オレが雑誌のエディターだったら、絶対やってみたい企画なんだけどなあ…。
あ、でも進行役がよっぽどうまくやらないと、最初から最後まで“ビーチ・ボーイズ話”だけで終わっちゃう可能性もありますね(笑)。

2012年9月 8日 (土)

鋤田正義さんの展覧会を巡って

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今、東京では写真家・鋤田正義の展覧会が複数開かれている。東京都写真美術館での「鋤田正義展 MASAYOSHI SUKITA RETROSPECTIVE SOUND & VISION」、パルコミュージアムでの「鋤田正義写真展『きれい』」、そしてPaul Smith SPACE GALLERYでの「BOWIE×SUKITA Speed of Life」の3つだ。
鋤田正義という写真家は、もともとファッション畑からキャリアをスタートさせた人なのだが、60年代後半からは国内外のミュージシャンをたくさん撮影するようになり、ニューヨークやロンドンの音楽シーンもリアルタイムで撮ってきた人物だ。70年代には、デビッド・ボウイのアルバム「Heroes」のジャケット写真を手掛けたことで、世界中に名前が知られるようになった。80年代以降は日本のミュージシャンのアルバムジャケットやプロモーション写真にもたくさん関わっているので、ちょうどその時期ロック思春期を迎えていた僕は、鋤田さんの写真をたくさん目にしながら育ってきた。恐らく、僕と同世代の音楽ファンは、鋤田さんの名前は知らなくとも、その写真を一度はどこかで目にしているはずだ。
3つの展覧会は、開催場所がそれぞれ恵比寿、渋谷、青山と近接したエリアの中にあるから、巧く回れば半日ですべて見て廻ることができる。オレ、即座に全部見ようと決めました(笑)。こんな機会は二度とないかもしれないからね…。

やはりと言うべきか、3つの中では「SOUND & VISION」が一番見応えがあった。テーマごとにコーナーが仕切られ、鋤田さんのキャリアを多面的に見せようとしていたことが感じられる。特に、コマーシャル・フォトに進む前の写真は、鋤田さんの原点とも言うべきもので、大変貴重な作品に触れられたと思う。また、映画やPVなど映像作品の展示もあり、鋤田さんがこっちの分野も手掛けていたことを全く知らなかった僕にとっては、ちょっとした驚きを感じもした。

展覧会でまず目に飛び込んだのは、入り口すぐの壁を飾る巨大なデビッド・ボウイのコラージュ壁画だ。山本寛斎のエキセントリックな服を着たボウイが、壁一杯に躍動しているのは圧巻。やはり、ボウイの撮影は鋤田さんのキャリアの中でも重要なものだということなのだろう。ボウイの写真だけで一コーナーが設けてあり、若き日の美しき異星人の姿がたっぷりと堪能できた。興味深かったのは「Heroes」のジャケットのフォトセッションを、撮影の時系列でベタ焼きにして見せた作品だ。レザージャケットを着たボウイが、髪を掻き毟ったり苦悩の表情を浮かべたりするさまが実にリアルで、もしジャケットにこっちの写真が使われていたら…などと想像するのも楽しい。

日本人では、やっぱりYMOとのセッションか。あの「SOLID STATE SURVIVOR」のアルバムジャケットには、しばし足が止まってしまった。。2012年にこのジャケットを改めてじっくり見るのは、ある意味原点回帰的なものを感じないわけにはいかない。このクールな質感、色彩感覚…。好む好まざるにかかわらず、僕はこのセンスに大きな影響を受けていたんだなあ、と改めて思い知らされた
忌野清志郎の写真もたくさんあった。これは92年のソロ製作時のメンフィスで撮られたものが大部分で、多くは最近出版された「SOUL 忌野清志郎」の中に収録されていたから、僕的には目新しいものは無かった。むしろ、日本のミュージシャンだと、フューやフリクションなど、東京ロッカーズ系の人たちの写真が、あの時代を的確に切り取っていて印象に残ったなあ。

奥の広いスペースは、これまで鋤田さんの撮ったミュージシャンや俳優などのインスタレーションが展開されていた。これは圧巻!憶えてるだけでも、エルビス・コステロ、マーク・ボラン、ジョン・ライドン、イギー・ポップ、ポリス、シンディ・ローパー、ニューヨーク・ドールズ、デビッド・シルビアン、ブライアン・イーノ、ジョー・ストラマー、ボーイ・ジョージなどがどーん!日本人では、渡辺香津美、シーナ&ロケッツ、Char、土屋昌巳、佐野元春、氷室京介、遠藤ミチロウ、山口冨士夫なんかが登場。役者さんだと沢田研二や小泉今日子、大竹しのぶ、宮沢りえ、永瀬正敏…。最近だと木村カエラの姿も。うーん、これだけでも日本の貴重なサブカルチャー資料と言えるのでは?

次に廻ったPARCOパルコミュージアムでの「鋤田正義写真展『きれい』」は、鋤田さんの作品の中でも、特にミュージシャンや俳優のポートレイトに絞って作品をセレクトしたもの。「SOUND & VISION」のような凝った展示法はとっていないし、デパートの中というスペースの都合もあってか、写真のサイズも全体的に小さめではあったが、著名人の登場してくる数はむしろこっちの方が多かったりするので、一般的にはこっちの方が楽しめるかもしれない。
この展覧会では、自分のお気に入りの曲を入れたカセットテープを回すような気持ちで写真を見ていったのだが、雑誌やレコード屋さんなどで見た記憶のあるものがとても多いことに改めて驚かされた。
個人的に印象に残ったのは、エイドリアン・ブリューの1stソロアルバム「ローン・ライノウ」のジャケ写真。実はこのアルバムは聴いたことがないんだけど、緑の草原の中、サイとギターを抱えたエイドリアン・ブリューが見つめあっているというジャケットは、その非現実感とユーモアに、リリースされた80年代当時から強い印象を持っていたのである。久々に再開したが、その印象はやはり鮮烈。30年以上経って初めて気が付いたんだけど、グリーンの草原とエイドリアン・ブリューの赤いスーツってのは、「SOLID STATE SURVIVOR」のカラー・バランスと全く同じですね…。
それにしてもこの写真、いったいどうやって撮ったんだろう?サイってけっこう狂暴だって聞くし、やみくもにサバンナを探し回ったってそうそうサイなんかいないだろう。おまけにサイの背中にはシラサギが止まったりなんかしちゃって。合成?とてもそうは見えない仕上がりなんですけど…。

最後に回ったのは、Paul Smith SPACE GALLERYでの「BOWIE×SUKITA Speed of Life」。これは、テーマどおりデビッド・ボウイを被写体にした写真だけをセレクトした写真展だ。場所がいわゆるブティックなので、展示スペースはそれほど広くなく、3つの中では一番小さな展覧会ではあった。だけど、なにしろ被写体はあのデビッド・ボウイだ。もうカッコいいったらありゃしない!73年のジギー・スターダスト時代から、最近NYで撮ったとされるポートレイトまで、写真は幅広い年代からセレクトされており、鋤田さんがいかにボウイから信頼されているかが良くわかる。中には来日時のプライベート写真なんかもあり、屈託ない笑顔をカメラに向けたボウイからは、ミュージシャン/デビッド・ボウイではない一人の英国人としての素顔が垣間見れて面白かった。
余談だが、Paul Smith SPACE GALLERYはすごく面白い空間だと思う。写真展が行われているのは3階のスペースだったのだが、それ以外でも建物のいたるところにロックに関わる写真やオブジェが飾ってあり、それを眺めるだけでもとても楽しい。もともとポール・スミスって、英国の服飾デザイナーで音楽畑の人とも縁が深いから、ロックとの相性が良いんだろう。まあ、僕個人はこういうお店に服を買いに来ることはまずないけどね…(苦笑)。

真夏の午後に巡った3つの写真展。とても面白かったなあ…。2012年の夏の心象風景として、この日のことは長く記憶に残りそうな気がする。
まあ、当然と言えば当然だけど、3つの中では「SOUND & VISION」が一番見応えがあった。これ、後から知ったんだけど、プロデューサーとして立川直樹さんが関わってんだよね。それもあってか、写真家・鋤田正義のキャリア全体を、とてもバランスよく展開してあると思う。

それにしても、写真美術館のエントランスは、何時来ても何か感じますねえ…。僕は霊感はあんまり強くないんだけど、この空間は明らかに時空が歪んでいる。アーティスティックな触角を振るわせる何かを感じないわけにはいかないのだ。

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2012年7月17日 (火)

福島へ帰る

先週の木曜から日曜にかけ、福島へ帰った。
週末には気になるライブやイベントもあったんだけど、それらは全てキャンセル。ライブや映画も大切だが、僕にとって今は、故郷の街に寄り添う時間を何よりも大事にしたいと思ったのだ。

両親の住む白河をベースに、いわき市、郡山市、福島市を廻り、3.11後の傷付いた故郷の今を見た。
改めて思ったこと。それは3.11後の世界の解り難さだ。今何が起きているのか、これから何が起きようとしているのか、もしかすると何も起きないのか、それが誰にもわからない。今、福島は“わからないこと”による大きなグレーの霧の中にある。その解り難さは、原発のある町よりも、むしろそこからある程度離れた地域、それこそ両親の住む白河市あたりで一層際立っているように感じられた。

ただ、この解り難さは、日本全体に漂っている空気と同質なのではないかとも思うのだ。

いわき市のある人は、原発から半径20キロ以内なんて二度と人が戻れないだろうと言っていた。
福島市に住む友人は、そんないわきを含む福島の浜通りなんてもはや人が住む所ではないと言う。
会津に住む人たちは、福島も郡山も白河も既に放射能を被っているんだから、もうみんな町を出るべきだと思っているらしい。
東京では福島県全体がもはや人が住む所じゃないと思っている人も多い。
関西の人たちから見れば、もはや東日本全体が多かれ少なかれ放射能に汚染されているように思われている。
そして、外国からは原発事故の影響は日本全体に及んでいると思われているのだ。

結局そういうこと。自分の住んでいる町から一歩も出ずに双眼鏡で世界を眺めているだけなら、それぞれの立ち位置から見方が違ってくるのは当たり前。
もはや、僕らは個人個人の判断基準をもって、このグレーな世界を生きていくしかないのだ。数字と確率と自分の暮らしとを勘案し、ある者は今までどおりの暮らしを続け、ある者は新しい町で暮らすことを選ぶ。100人の人がいれば100通りの生き方があるのだから、その判断にも100通りの基準があるのは当然だ。それに関して外の人間が安易な意見を挟むべきではないと僕は思う。3.11後、僕らはそうやって生きてくしかなくなってしまった。

僕の両親は、3.11後も福島県白河市で生活している。福島を出ることは全く考えていない。本当は僕だって不安だ。しかし、両親のこれまでの生き方と歳を考えると、無理に東京に出ることを勧めることはどうしてもできない。
福島に滞在中は、僕も庭の家庭菜園で採れた野菜を口にし、夜は父と地元の酒を酌み交わした。
翌朝はランニングシャツを身につけ、朝靄に包まれた街中を20キロ黙々と走った。
僕の故郷への接し方は、3.11以前と何も変わっていない。

いや、やっぱり変わったかな…。僕は無理やり“以前と何も変わってない”と思い込もうとしている。
心の奥では、放射線量、土壌、食べ物、川の水、それらがどうしてもグレーに見えてしまうことは否めない。
見た目は昔と何も変わっていない町を走りながら、何故かわからないが、僕の胸には激しい怒りがこみ上げていた。

2012年6月12日 (火)

父が来た日

2週間前の日曜日、父が東京に出てきた。
これまでにも何回か書いてきたが、僕の両親は福島県白河市で暮らしている。毎年、お盆やお正月には家族で里帰りしていたのだけれど、去年の3月11日以降それはできなくなってしまった。福島と東京。距離は近いが心の距離は限りなく遠い。その溝を埋めるかのように、父はたまに東京まで孫の顔を見に来るようになった。

僕と父。もともと息子と男親なんてそうそう会話が弾んだりはしないもの。まして3.11以降は…。

僕「どうだい、そっちは?」
父「…。元気ないねえ…」

それだけでもう十分。父が今、どんな気持ちで毎日を過ごしているのかがわかってしまう。それが親子というものなのだ。

3.11から1年と3か月。僕には、東京で暮らしている人たちは、地震も津波も原発事故も過去のことだと思い込もうとしているように見える。
でも、原発事故は全然収束なんかしていない。今、この時点で確かなのは、去年の3月ごろと比較すれば、4つの原子炉から出る放射線量は少なくなり、原子炉の温度も下がったこと。でも、これは言い方を変えると、今でも壊れた原子炉からは微量の放射性物質が漏れ続け、原子炉は常に冷やし続けなければならない状態が続いているということだ。しかも、水は入れたそばからダダ漏れしており、それが海や地下をどれだけ汚しているのかもわからない。まして、メルトスルーした核燃料が今どこにあるのかすらわかっていない。
そして、なんといっても4号機プール。あれが倒壊したら福島はおろか東京も終わりなのだ。重ねてここ数日の報道では、東京でも放射性セシウムを吸着した黒い物質が見つかったという。その値、1キログラム当たり最大24万ベクレル…。
唖然としてしまう。僕らは今もギリギリの世界で生きているのだ。

これで何が終わっているというのだろう?タイムマシンがあるならば、僕は10年後の未来を見たい。僕らは今、悪夢のどの辺りにいるんだろう?もしかしたら、今はまだ何も始まってさえいないのかもしれない。

野田さんは「国民の生活を守る」ために大飯原発を再稼働するそうだ。じゃあ、聴きたいんだけど、「国民の生活を守る」の中に「福島県民の生活を守る」は含まれているんだろうか?
「精神論」じゃ国は守れない?ふざけんじゃねえ!と思う。僕の故郷は、孫の顔を見せに帰ることすら躊躇ってしまうような土地にされてしまったのだ。僕は決して孝行息子ではなかったが、父が不憫で仕方がない。もし、僕に今背負うものがなかったら、今こそ傷付いた故郷に戻って年老いた両親とともに生きていきたいとすら思う。こんなことなら家庭なんか持つべきじゃなかったのかも。そんなことまで考えてしまうのだ。

いったい、こんな気持ちにさせたのは誰なんだ?この国のトップの言うことは無責任すぎないか?

2012年6月 7日 (木)

6月はたそがれの国

グッド・バイ、レイ・ブラッドベリ

SF少年だったオレ。高校生のころ夢中で読みました、ブラッドベリ。91歳かあ…。大往生ですな。

ブラッドベリは、SFっていうよりもファンタジー作家っていうイメージだな、オレにとっては。作品の中での科学に対する扱い方も、ハードSFの作家のように技術的な部分をシリアスに描き上げたりはせず、月ロケットのロマンに憧れた少年の気持ちをそのまま具象化したような感じ。こういう瑞々しい感性を持ち続けたからこそ、暗闇を純粋に恐怖するような話とか、「火星年代記」のような抒情性溢れる作品が書けたんだと思う。

最近は作品も読んでなかったし、インタビューなんかも目にする機会がなかった。だけど、町のどこにも真の暗闇が無くなってしまった今は、もしかしたらブラッドベリには生きづらい時代だったのかもしれない。
誰もがコンピューターを持っててインターネットにアクセスするようになったこの時代のことや、何よりも日本の原発事故なんかに関して、ブラッドベリはどんなことを想っていたんだろうなあ…。

そうか、オレたちの住むこの世界からは、もうブラッドベリも居なくなってしまったのか…。

2012年4月16日 (月)

夜の木蓮

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子供のころ、僕は木蓮の花が無性に怖かった。
まだ冬枯れの木が目立つ季節に、まるで涙のような形の大きな芽が忽然と現れ、やがて大きく派手な花弁をつけていく。その様は、それだけで周りの空気をがらっと変えてしまう強烈な存在感がある。そのオーラとねじれた手のように奇怪な花のカタチが、子供の僕にはとても怖い存在として映っていたのだ。

大人になってからは、もう木蓮に恐怖心を抱くことはなくなった。
今、近所では紫木蓮の花が咲いている。その様は、まるで熱帯に住む鳥が群れをなして空を舞っているかのよう。紫木蓮のある一角は、周りから完全に切り離された非現実的空間になっていて、通るたびに胸が躍る。
今はこんなふうに木蓮の持つサイケデリックな妖気を楽しんでいると思っていた。

ところが、昨日の夜、僕はまたまた木蓮にぎょっとさせられる体験をしてしまったのだ(苦笑)。
昨日はちょっと思うところがあり、いつもと違う道を歩いて家路に着いたのだが、ある場所を過ぎたらどうも誰かにじーっと見られてるような気がして仕方がない。
振り返ったら、そこには大きな白木蓮の木があったのだ。夕闇の中にぼーっと浮かぶ白い花。それはなんだかたくさんの掌が手招きをしているみたいで…。

うーん、僕の木蓮恐怖症は、まだトラウマとして残っているのかもしれない(苦笑)。

2012年4月11日 (水)

ハナフブキ

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朝、まだ家族が寝ている時間にそっとベッドを抜け出し、白み始めた町を走り出す。
僕のランニングコースは上野公園。池の周りを一周する頃、東の空が赤く染まりはじめ、ランナー仲間や散歩をする老夫婦など、顔なじみになった常連さんが顔を見せ始める。
こんな生活をはじめて、今年で3回目の春を迎えた。

早朝に走る習慣を身につけてから、僕は以前より季節の移り変わりに敏感になったことを自覚している。ビルに囲まれた都会の真ん中でも、自然は四季折々でさまざまな顔を見せてくれることを教えてくれた。

今の季節、上野公園は桜が満開。走りながら空を見上げると、そこはまるで青い布の上に桃色の千代紙を散りばめたようだ。

実は、僕は春という季節があまり好きではない。門出の季節ではあるが、個人的には、それと同じぐらいの数の辛い別れを経験してきているからだろう。
桜の花の色は女性の肌の色に似ている。だからだろうか、この季節はどうしてもいなくなってしまった人たち、通りすぎていった遠い人たちのことを思い出してしまう。
それは、過去と現在が混じり合い、一瞬自分が今何処にいるのかわからなくなってしまうような不思議な感覚だ。

今日、東京は雨だった。上野の桜はしとどに濡れ、散り始めた。長い冬を耐えた花がはらはらと散っていく様は、美しいけれどとても切ない。それは心の奥にしまってあった深い記憶を引き出し、僕の胸を苦しくさせる。

今朝、いつものように淡々と走り続ける中で、桜の花びらは、僕の身体を包み込み、花吹雪のように舞っていた。そんな時、僕はいなくなってしまった人たちのぬくもりを、いつもより少しだけ近くに感じる。

桜は不思議な花だ。桜を見ていると、僕が今こうして生きているのは、これまで出会ったいろんな人たちとの時間の積み重ねであることを、改めて思い起こさせてくれる。

花吹雪のトンネルを抜けた時、見えない明日をあの人が照らしてくれるだろうか…。

2012年1月 7日 (土)

賭け

おかしい。文部科学省が発表しているデータによると、昨日ぐらいから福島と北関東のセシウム降下量が急上昇しているのだ。これは事故直後、4月ごろと同じぐらいのレベル。明らかに異常だ。

なぜ、こういうことを大手マスコミは報道しないのだろう?
今年の年末年始はいつにも増して違和感が湧き上がる日々だった。テレビをつける。予定調和の紅白歌合戦。相変わらずのお笑いや物真似。ただ長いだけの特番やドラマ…。あれだけの事故が起こったのに、まして第一原発は全然収束なんかしていないのに、このお気楽ぶりは一体なんなんだろう…。せめて一局ぐらいは現在のフクイチの様子を報せてくれてもいいんじゃないのか?
テレビが嫌になってネットを見てみる。飛び込んでくるのは、いつもの年の瀬と変わらない書き込みの数々だ。行ったライブの本数。買ったCDの私的ランキング…。悪いけど全く頭に入らない。残ったのはむかつくような違和感だけ。
新年早々こんなことを書きたくはなかったのだけれど、この国は一刻も早く福島を過去のものにしたいみたいだ。

年末年始、子供を連れて福島に里帰りできなかった僕は、正月に両親を東京に呼んだ。年老いた両親の目に、東京の日常がどう見えたかはわからない。ただ、もしかしたら自分たちが生きているうちに、もう孫を福島に迎えることはできないと思っていたのではないかと思う。辛くてそんなことを話す気にはなれなかったけど…。

なぜ福島県民は福島から逃げないのか、と言う人がいる。僕自身、なぜ両親を東京に呼ばないのかと聞かれることもある。
じゃあ言いたい。あなた方は今のような北関東の異常な数値が続けば東京から出るのかと…。

それにしても、異常な数値の原因はいったい何なんだろう?前々から言われているように、一番危ないといわれていた4号機で何かが起こったのだろうか?年末年始に福島を震源にした地震が複数回起きたことが、今ひどく気になっている。
この異常なセシウム降下物について、文科省は昨日の夜遅く、「土日は公表せず」と発表した。その理由は「値が変わっていないから」だそうだ。これまでは値が変わってなくても記述があったのに…。
こういう国に僕らは住んでいるのだ。今、東日本に住んでいることは一つの“賭け”なのかもしれない。

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