山口洋 MY LIFE IS MY MESSAGE -solo2012 / 2012年5月4日(金・祝)吉祥寺・Star Pine's Cafe
このツアーを観るのは、先月の横浜Thumbs Upに続いて二度目だ。横浜で驚いたのは、ライブに「ヒロシと話そうコーナー」があったこと。なんと、ヒロシが「何か聞きたいことない?」と客席に直接問いかけるのだ。これは、今までの山口洋のキャラクターを思うと、まったくもってとんでもないことである(苦笑)。今回のツアーは、MY LIFE IS MY MESSAGEプロジェクトとの一環として、山口洋と仲間達がピンポイントで復興を支援している福島県南相馬市の今を伝えることも目的のひとつとなっている。こういうコーナーを設けたのは、ヒロシが観客に音楽をただ受け止めるだけでなく、この国で今起こっていることに関して、観客一人ひとりに能動的に考えて欲しいという問いかけをしているのだろうと僕は受け取った。
だからこそ、僕は横浜のライブを観終わって、とてももやもやした気持ちになったのだ。もちろん、それはライブに対してではない。何も発言しなかった自分の態度に対してだ。後述するが、僕は今回の原発事故において、それを絶対に静観することの許されない立場に置かれている。そんな僕がこういう機会で沈黙してしまった。それがすごく情けなかった。このままでは、僕はずっと後悔し続けることになる。幸い首都圏では吉祥寺でまだライブがある。正直に言うと、僕は最初このライブに来るつもりはなかったが、僕はそこに足を運んで何かを発言しなければならないと思った。そうしないと自分で自分を許せなかった。
僕は福島県福島市の生まれだ。3.11の震災による原発事故で、僕は自分の体が真っ二つになってしまったような感覚を持つようになった。ひとつは福島という地に生まれたフクシマ・チャイルドとしての自分。もうひとつは危険な原発を遠くに置き、故郷福島で作られた電気をだらだらと使い続けてきた東京人としての自分。このパラドックスは自分をどうしようもなく苦しめる。東京でのお気楽な暮らしは、自分の故郷で生きる人たちに危険なリスクを強いた上で成り立っているものだったのだから。
そして、現実に故郷は汚された…。少年時代を過ごした思い出の野山は、高い放射線量のために近づくことさえできなくなり、古い友人や親戚は、放射能による低線量被曝の不安を抱えながら生きている。年老いた両親もまだ福島県内で暮らしたままだ。
3.11以来、若いころは愛憎半ばだった福島に、僕は時間を見つけて帰るようになった。帰らずにはいられないのだ。そこは世界で一つしかない僕の故郷なのだから。放射能という目に見えない敵に苦しむ故郷のために、少しでも何か手伝えないか…。そんな想いに胸を焦がしている。僕の想いは、喩えれば、親が瀕死の状態になってやっとそのありがたみに気付いたバカ息子そのものだ。
だが、何もできない。本当に放射能という奴は手におえない化け物なのだ。最近は、帰っても旧友と酒を飲んで彼らの愚痴を聞くのがいいところ。正直言うと、1年経ってもまったく変わらないこの状況に、僕も福島の旧友たちも疲れてしまっている。
今年に入ってある人に言われた。福島に居続ける選択をした人たちに対し、お前はそろそろ“出る”ことを口にした方が良いんじゃないか、と。それは僕の胸をぐさりとえぐった。心の奥では僕もそう思っていた部分があるからだと思う。でも、本当は彼らだってそんなことはわかってるのではないかとも思う。だからこそ、僕はそれを口にできない。その封印を解いたとき、僕らの関係は崩れてしまうかもしれない。それが僕は怖いのだ。でも、すべては命あってのこと。今は友情より現実を伝えるべきなのかも…。
答えがないのはわかっている。わかっているけど、逡巡せずにはいられないのだ。そんな状態がずっと続いている。よく、新聞記事で“今は被災地に寄り添うことが何より必要”なんていう言葉が載る。でも、寄り添うって何だ?じゃあどうしろっていうんだ?そういうことを言う人は、具体的にどういう行動をとるのを“寄り添う”っていうのかわかって言っているのだろうか?
吉祥寺で、僕はそんな想いを正直に話してみようと思った。こんな話ができるのは、実際に福島に足を運んだことのある山口洋ぐらいだろうから…。
この日の「ヒロシと話そうコーナー」は、休憩を挟んで、二部の新曲「MY LIFE IS MY MESSAGE」が終わってすぐだった。「何か聞きたいことない?」という山口洋の問いかけに、僕はすかさず手を挙げた。
その後は、夢中で話したから何を言ったかよく憶えていない。言いたいこと、伝えたいことの半分も話せなかった。ただ、福島の線量がとても高いこと、去年勇気を出して除染の手伝いをしたけど、今はそんな危険なリスクを伴う作業を一般市民がやることにすごく疑問を持っていること、そして、福島に残っている人たち、何よりもその人たちと暮らしている子供たちに対し、山口洋が本当のところはどう思っているかは質問できたはずだ。
ヒロシはとても真摯に答えてくれた。とくに、以前報道ステーションでも取り上げられた”黒い塊”を例にとっての話は心に残った。それはとんでもない濃度のプルトニウムが含まれた危険極まりない物質なのだが、それをどう報道するかでさまざまな意見があるらしい。でも、ヒロシはあるものはあると事実を伝えるべきで、どう受け取るかは読む人に任せればいいとはっきり言っていた。その話を聞くだけでも、僕はだいぶ楽になれたような気がする。
もう一つ印象に残ったのは、ヒロシがライブ中に何度も“あきらめない”って言っていたこと。ライブ直前の彼のブログによれば、ARABAKI ROCK FES.の後に南相馬に寄り、あの時から何も変わっていない荒涼とした風景に暗澹たる思いになったという。なのに、目の前にいる彼は全然めげていないのだ。それどころか、先日の横浜ライブよりも元気になった感さえあった。
山口洋、つくづく不思議な男だ。この男は逆境にあればあるほど元気になるのかもしれない。そして、口で言って行動もする究極の有言実行男だ。そこがすごいと思う。なんつうか、やっぱ九州男児だなあ~と思った。こういうメンタリティは東北人にはなかなかない。うーん、見習わなければ…。
そのあとの「それでも世界は美しい」は、なんと、僕のためにと言って歌ってくれた。いやあ~恐れ多い…。歌詞の一部に僕の名前を使ってくれてたのには、照れ臭くてしょうがなかったけれど、聴いているうちに熱いものがこみ上げてきて、涙を堪えるのに必死だった。これはもう、一生忘れられないなあ…。
最後の最後、「満月の夕」が終わった後、山口洋はステージから降りてきて、なんと直接僕に使ったばかりのピックを渡してくれた。そしてがっちり握手。その手はとても温かかった。これは僕へのエールだと思う。福岡生まれのオレが、こんなにも身を焦がして力を注いでいるんだぞ。福島で生まれ育ったオマエが落ち込んでいてどうする!そんな風に喝を入れられた思いだった。
本当のことを言うと、音楽を聴く場であんまりヘビーなことを話すのはどうかという思いもあるにはあった。質問コーナーで、僕の後に手を挙げる人がいなかったのも、自分があんまり重い話をし過ぎたからかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちにもなった。
でも、ライブ終了後に何人かの方が声をかけてくれたのはとても嬉しかったし、今はやっぱり発言してよかったんだと思っている。僕の拙い話でも、少しは何かを伝えられたのだから…。
もしかしたら、僕はちょっと肩に力が入りすぎていたのかもしれない。この夜、僕は福島の現状を自分のことのように受け止めている人が東京にもたくさんいることを知った。それだけでも十分。ぼくは一人だけど独りじゃない。まだまだ頑張れる。
なんだか自分のことばかり書いてしまいました。申し訳ありません。
でも、僕にとってこの日はそういう特別な夜だったんです。
この夜のライブの様子は、他の方が素晴らしいレポを書かれているので、そちらを見ていただければと思います。僕にとってはあまりに個人的な思いに溢れたライブになり過ぎ、とても客観的なレポを書くことができません。
この文書を読んでいただいたすべての方に感謝します。もし、あの吉祥寺の夜を共にした方がいらしたら、僕のへヴィな話を不快に思われたかもしれませんね。ごめんなさい。でも、もしよかったら少しだけでも僕の生まれた町、福島に思いを馳せて欲しいと思います。それは、日本の国がこれまで目を瞑ってきた歪みが白日の下に曝された姿でもあるのですから…。
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